「式内社」焼津神社(やいづ) HOME blog

鎮座地 〒425-0026 静岡県焼津市焼津2丁目7-2 旧駿河国 益津郡   
電話  054-628-2444
旧社格等  県社(現別表神社)
式内社 駿河國益津郡 燒津神社
御祭神  ・日本武尊
(配祀)
 ・吉備武彦命
 ・大伴武日連命
 ・七束脛命
御由緒 一、祭神
  本殿 日本武尊
  相殿 吉備武彦命
     大伴武日連命
     七束脛命
一、由緒
 当社は記紀所載の如く、第十二代景行天皇四十年七月、日本武尊が弟橘姫を伴い、吉備武彦、大伴武日連の武将を従え、七束脛を膳夫として東夷御征討の砌、此地で野火の難に逢われた際、天叢雲の剣で草を薙ぎ、向火を放って、悉く賊徒を討滅されたという御事蹟を伝える御社で、廷喜式神明帳登載の駿河国益津郡焼津神社は、即ち当社である。駿河国諸郡神階帳によれば、神階正四位下に叙せられ、入江大明神とも称えられて諸民衆から崇敬されて来た。
 創建は、駿河国風土記によれば、反正天皇四年己酉(西暦四〇九年)と云われ、今川氏の代になって社領五百石の寄進をうけ、徳川氏に至り、家康は社殿を造営し、又代々七十石の朱印高が附せられている。
 明治天皇御東幸の際は、官幣使差立の先触状があったが、官道より遠隔のため沙汰止みとなった。
明治六年三月二十二日郷社に、同十六年六月二十五日県社に昇格、昭和四十一年七月一日別表神社に加列した。
一、特殊神事
正月元旦〈のぼり祭り〉
 元旦早朝より漁業者が各船の大漁旗を大広前に立て、歳旦祭に併せその年の大漁祈願をする。
5月1日~3日〈参籠祭〉
 午后7時より漁業者が提灯を大広前に並べて参籠し、漁船の航海安全、大漁満足の祈願祭を行う。
8月1日〈御注連下し祭〉
 例大祭に当って各社殿(本社、摂末社、境内社)鳥居、社務所の注連縄を新しく調製し、神前に報告する。又、この日四ケ所の御旅所、神役の家、御休所、会所等にも二本の忌竹に注連が張られる。
8月12日〈のぼりかつぎ参り〉
 12日早朝、生後はじめての年より3年間(奉納焼津神社)と書いた幟をかついで参拝し、無事成長の祈願を受け、3年目にはその幟を神社へ奉納して終る。又、のぼりかつぎ参り一年目の幼児は、拝殿前斎場で魂の再生を願って〈神ころがし〉の儀式を受ける。
8月12日〈御神楽祭〉
 午后9時より、例祭 渡御神事と並ぶ最も重要な祭儀であり、古来〈丑の刻祭〉とも言われ、神幸式前夜執り行われる古儀で、浄闇の裡にりゅうりょうと奏でられる古伝の笛の音曲は、その夜献ぜられる碁石御供と共に祭事の中心をなしているが、古く行われている湯立の舞共々、例祭に対しての厳重な物忌である。

一、旧跡
 御沓脱
  当社より東方○、三キロの地にあり、日本武尊東征の時、一草庵をもとめて休息の折、一老女が小麦飯を奉った跡といわれる。

一、焼津神社と信仰
 焼津神社の信仰は、里人の永い歴史の中に育くまれ培かわれて来た。一漁村の昔から、人口十万余の大漁業都市としての今日に至るまで、えんえん千五百八十有余年の間、入江大明神と崇められ、焼津神社を中心として栄えて来たことは、御祭神の偉大なる御神徳であり、里入の篤い信仰のたまものである。
 とりわけ焼津の基幹産業としての漁業者の信仰は、小船を操った頃も、近代的装備を旋した現在でも変ることはない。これは漁業が超大な大自然とのたたかいであり、宏遠無比な神の霊力を仰がざるを得ない必須の素因がある。近年定着した遠洋漁業基地としての営みの中に祈願と報賽がなされ、焼津信仰の基ともなっている。
 焼津神社の信仰が如実に具現されるのが〈荒祭り〉で名高い、八月の例大祭渡御神事である。
焼津の里人は正月よりも、八月の大祭によって〈焼津っ子〉としての成長を自覚するといわれている。
焼津祭りは神への奉仕であり、神と人、或いは祭る者と祭られる者との霊的な接触であり、絶え間なき斎戒のもとに行なわれ、神と人との合一を究極の目的とする、祭り本来の姿を見い出すことができる。
 十二日御神楽祭の荘重極りない静と、十三日例祭の二基の神輿を中心に漲りほとばしる動の世界は、神人一体となり、本質的な神と人との交渉を深め、人の祈りを神に通じさせるための信仰形態でもある。
 神輿に群がる若者達はもとより、他所に嫁ぎ、この日の忘れ得ない感動を胸におさな児を連れて里帰りした人、いつかは自分が主役にと目を輝かす少年達、それらの心の中に神の存在を意識するのである。
 (神社パンフレット「焼津神社略記」より抜粋) 
参拝月日  03/29/2009

写真をクリックしてくださいフォトアルバムに移動します。
境内入口の鳥居 拝殿