「式内社」東霧島神社(つまきりしま) HOME blog

鎮座地 〒889-4504 宮崎県都城市高崎町東霧島1560 旧日向国 諸県郡   
電話  0986-62-1713
旧社格等  県社
式内社 日向國諸縣郡 霧嶋神社 
御祭神  ・伊弉諾尊
御由緒  神々のふるさと東霧島神社由来記
伊弉諾尊とオノゴロ島
 天地が開け万物が成長し初めた頃、高天の原に天御中主神を初め五神の別天神が現われ、つづいて神世七代と呼ばれる神々が生まれたのでありますが、そのとき男女一対の偶生神であり天地創造の神である伊弉諾尊、伊弉冊尊が誕生されました。
 この二神様に天の神が矛を授け二神様が天の浮橋(神社の背後に連なる長尾山脈)に立ちただよえる国に矛をおろし、かきまわし、そして引き上げ矛の先から滴り落ち固まったのがオノゴロ島(現在の日本国土・別名大八島国)の誕生であるといわれております。
高千穂の峰と神の都
 高千穂の峰は南九州の中央部にそびえ、伊弉諾・伊弉冊二神の御子天照大神が御孫の天津彦火瓊々杵尊に御神勅と三種の神器をあたえて天降りを命ぜられた、山容の秀麗な霊峰であります。
現在山頂に奉祀してある天の逆鉾で伊弉諾・伊弉冊神がオノゴロ島をつくられたのであります。山麓一帯は霊地が多く霧島神宮(元は高千穂河原に鎮座してあった)以外の霧島六所権現宮は宮崎県側に鎮座してあり、なかでも伊弉諾尊を祀る神社は霧島東神社と当社だけで、当社は神世の皇都でありまた霧島山の四方門では東方発心門になると由来記にあります。
創建
 宇宙の創世とともに八百神様が大八州島国の国造と政事を重ねられ「まつり」として数千年来祖達から受け継がれた遺産が祭祀の遺跡として、現在では生活の古典になっているのであります。このように当社は、はじめ北諸地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀られ、のちに人皇第五代孝昭天皇の御代(昭和五十年から逆算して二四〇〇年の昔)に創立されたものと伝えられております。
 その後、村上天皇の御代応和三年(昭和五十年から逆算して一〇一二年の昔)に京都の性空上人が巡錫参篭し噴火噴出土で焼失し埋没した当神社を再興し霧島六所権現東御在所としました。江戸時代になって島津藩主家久のとき東霧島大権現宮ととなえるようになりました。宝物を拝観して感ずるように、特に当社は歴代島津藩主の崇敬が厚く祈願奉賽や寄進、造営が度々行なわれております。
神石と安産の神産婆祖母様
 神石の別名を裂盤又は魔石と呼び故有谷の小池のなかにあり、数多くの神々をつくられた伊弉諾・伊弉冊の二神は、伊弉冊命が火の神、軻遇突智(火皇産霊命)を難産し身が焦けて世を去ってしまわれたので、このことを怒り悲しまれた伊弉諾尊が十握の剣で石と化した火の神を三段に切られた。このときそのうちの一片は遠く宮崎の大島平原村に飛び去ったということであります。
 東諸県郡高岡町に去川という地名があるのはこの飛び去った神石の一片のことを示したもので、古文書の延喜式に去飛、神石云々とあります。亡くなった伊弉冊尊を祀る伊弉冊神社が神石の近くにあり俗に産婆祖母様といってお参りした婦人が故有谷の水を呑んで帰れば安産するとのことから「坂の下詣り」といって古来から婦人の参拝者が多いのであります。
十握剣と橘の木
 御神宝十握の剣は別に「十拳剣」「十掬剣」といって、この剣は伊弉諾尊が佩刀したもので、四指の握りで十握りの長さの剣ということであります。
 平安時代の頃の度重なる霧島山の噴火のため火災や噴出土の堆積がひどく神社の荒廃とともに社宝が行方不明になってしまったのであります。
 性空上人が参篭し苦行中に神児が現われて神剣のありかを告げたがどうしても発見することができなかったのであります。ある日、上人の修業中にどこからともなく飛んできた一羽の鳩が神社の庭の橘の木にとまり、そのあと数回木の上をまわり、同じようなことを三回くりかえしたので上人は神のお告げと橘の木の所を掘ってみると地中に石の梢に納まった剣が発見され曇りひとつないほどに輝いていたということであります。このようなことから神社地一帯を鳩園とよんでおります。
梵鐘
 島津宗藩第十九代の藩主、島津家久公が慶長二十年の春、大阪夏の陣に出陣するときに、御家長久、子孫繁昌、武運自在、国家太平、万民快楽等の諸祈願のために、霧島山大権現に奉納したものである。
 家久公は大権現の大檀主であり祈願主には勅詔院の性隆法印がなっており、梵鐘の銘文には島津家につかえる戦国武将や助力衆、作者、銘書者など当時の有名人が名を連ねている。旧島津藩内の社寺にはこれより古い作りのものはなく、格式の高かった東霧島山大権現宮を証明する第一級の文化財である。
扁額
 古代祭祀遺跡が散在する東霧島神社に性空上人が別当寺を建立して壱千弐拾有余年のちに天皇の勅許、勅詞により院とともに権現宮の名が授けられたのである。
 応永十六年島津久豊公が知行のなかから十町歩を寄進した願文書の中にも権現宮名がでている。
この東霧島大権現宮の大扁額も横一四〇糎、巾五五糎でその木質の風化状態からみて、かなり古く四〇〇年以上は経過しているもので、またきわめて達筆な揮毫からみて島津藩主の書とも考えられる。これもいかに東霧島神社が祈りの宮として歴代藩主の信心が厚かったかが偲ばれる。
東霧島神社のおみこし
 春の例大祭で行所までの浜下りの神事におみこしの行列があるがこのおみこしの天井に墨書で次の記録がある。「寛永十六年家久公御建立所及大破故嘉永二巳酉矢守斉興公御再興天下太平国家安全五穀成就萬民豊楽奉再興薩隅日三州大守御当家二十九代斉興邦君御息災延命御武運長久ニ御願令成就故也」このことは寛永年間に島津十九代家久公が建立したが破損したもので、諸々の祈願をこめて二十九代斉興公が修理したものということになる。庄内の乱で本陣となった勅詔院に家久も居住し、日夜参詣したものと考えられる。家久は東霧島神社にはいろいろの寄進をしていることから歴代藩主でも特に信仰が厚かったものであろう。おみこしの奉納は三四〇年位前のことである。天井部分を修理したことは古さや材質の違いでわかり、床面には神社の別当寺である東霧島山金剛仏作寺勅詔院住職の墨書もある。
 (平成祭データ)
参拝月日  11/26/2008



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一の鳥居 社殿全景