照國神社(てるくに) HOME blog

鎮座地 〒892-0841 鹿児島県鹿児島市照国町19-35 旧薩摩国 鹿児島郡   
電話  099-222-1820
旧社格等  別格官幣社 (現別表神社)
御祭神  ・照國大明神
御由緒 御祭神 照國大明神(薩摩藩二十八代藩主島津齊彬公)
御由緒
 御祭神の島津齊彬公は、文化六年(一八〇九)御出生、嘉永四年(一八五一)四十三歳で襲封され、安政五年(一八五八)薨去されるまで僅か七ケ年間の治世であったが、その間の御事績は藩内のみならず日本国にとっても広く大きく数々のものを残された。生前の御遺徳を慕い崇敬の念を寄せる万民の願いにより神社設立の運動が起り、文久二年(一八六二)鶴丸城の西域である南泉院の郭内に社地を選定し、仝三年(一八六三)五月十一日勅命によって照國大明神の神号を授けられ一社を創建した。
 翌元治元年社殿竣上、照國神社と称し、明治六年県社に、仝十五年別格官幣社に列格し、仝三十四年正一位を賜り、今日では、鹿児島市の氏神様として、多くの人々に崇敬されております。
社 殿
 創建時の社殿は権現造、明治十年西南の役の兵火に罹り焼失、仝十五年建設流造、更に明治四十二年改築、昭和二十年八月戦災に依って焼失、仝三十三年本殿、仝三十八年拝殿仝四十五年神門を夫々再建し、仝六十二年東授与所、仝六十三年西授与所を建設し、平成六年御鎮座一三〇年記念に幣殿を拡張した。
御事績
 御祭神は天資聡明であられ、当時三百諸侯のなかでも稀に見る偉材と称えられておりました。幼少より学問を好まれ、蘭学を始め多方面に業績を残されており、開明的な考えと、科学的な知識を持たれ、海外の情勢に最も明るい大名でありました。江戸幕末の、国の内外多事多難の前途を克く洞察され、その対策として積極的な西欧文明の導入による集成館事業は、反射炉設置、大砲製造、蒸気船建造、洋式紡績工場開設、日章旗制定等、多くの業績を
残し、国力増強と殖産興業により、人々の生活向上と、外国の勢力に左右されない国の基盤の安定をはかられたのです。
 又、敬神の念篤く、尊皇尽忠を基として、学問を奨励し、身分にかかわらず有能な人材を養成されたために、西郷南洲、大久保甲東等、幾多の人材が輩出し、明治維新大業の原動力となられた方で、治世中の業績は貴く大きく、近代日本の礎を築かれた大恩人であります。
 (神社パンフレットより)

 照國神社の御由緒
御祭神 照國大明神(薩摩藩主島津家二十八代島津齊彬公)
 御祭神は文化六年(一八〇九)薩摩藩主島津齊興公の御嫡男として江戸で御誕生になりました。幼少の頃曽祖父重豪公や母賢章院の薫陶を受けられ、学問を好まれ、広く世界に眼を向けた開明的な考え方と科学的な知識を身につけられました。公は嘉永四年(一八五一)四三歳で藩主に就任されるや、幕末の内外多事多難な状況に対応して国事に奔走、欧米諸国のアジア進出の情勢を踏まえて、日本を強く豊かな国にするため、積極的に西洋の科学技術の導入に努められました。さらに、その核となった日本初の西洋式工場群「集成館」を鹿児島に設置され、「富国強兵」「殖産興業」という理念のもとに近代日本の礎をお築きになったのです。
 また、公の発案による日章旗(日の丸)の制定は、まさに日本が国際社会にその第一歩をしるした象徴であります。
 公は安政五年(一八五八)五十歳で薨去されました。御治世僅か七年でありましたが、この間、明治維新に活躍した多くの人材を育成しておられます。文久三年(一八六三)には御生前の幾多の御事蹟を称えて、勅命により照國大明神の御神号が授けれました。そして、一社を南泉院の郭内に創建し、翌元始元年照國神社と称しました。
 当社は明治六年県社、同十五年別格官幣社に列格せられ、今日鹿児島県の総守護神・氏神様として尊崇されております。
 (社頭由緒掲示板より) 
参拝月日  11/27/2008



写真をクリックしてくださいフォトアルバムに移動します。
大鳥居 拝殿