讃岐國一の宮「式内社」田村神社(たむら) HOME blog

鎮座地 〒761-8084 香川県高松市一宮町286 旧讃岐国 香川郡  
電話  087-885-1541
旧社格等  国幣中社(現別表神社)
讃岐國一宮
式内社 讃岐國香川郡 田村神社 名神大
御祭神  ・倭迹迹日百襲姫命
 ・五十狹芹彦命
(配祀) 
 ・猿田彦大神
 ・天隱山命
 ・天五田根命
御由緒  讃岐國一宮 田村神社略記
一、ご祭神
   倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
   五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)[吉備津彦命(きびつひこのみこと)
   猿田彦大神(さるたひこのおほかみ)
   天隠山命(あめのかぐやまのみこと)[高倉下命(たかくらじのみこと)
   天五田根命(あめのいたねのみこと)[天村雲命(あめのむらくものみこと)
    以上五柱の総称を田村大神(たむらのおおかみ)と申す

 倭迹迹日百襲姫命は皇祖第七代孝霊(こうれい)天皇の皇女で崇神(すじん)天皇の御代に疫病で人々が苦しむのを救い、 また武埴安彦(たけはにやすひこ)の謀反を予知し未然に防ぐなど数々の勲功を上げた事により百襲(ももそ)(襲は勲功の約)の名を負う。後五十狭芹彦命と西海鎮定の命を奉じて讃岐國に下り農業殖産の開祖神となった。御陵(昼は人が造り夜は神がこれを造ったといわれ箸(はし)の陵(みささぎ)といわれている)は大和国城上郡大市村にある。
 五十狭芹彦命は倭迹迹日百襲姫命の弟に当たり、四道将軍の一人で西海を鎮定し吉備国の祖神となった。
猿田彦大神は皇孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)降臨のとき天(あめ)の八衢(やちまた)に出迎えて先導を申し出、道途の安全を守護した神でこの神の向かうところはいかなる禍神(まがつかみ)も恐れて避け奉ったといわれ方除神(ほうじょのかみ )として神威まことに偉大である。
 天隠山命は皇祖神武(じんむ)天皇の御東征の際、窮地を救った神で後に御子天五田根命と共に紀伊国より当国に渡り山河をもって国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定めた。

一、由緒
 当神社の起源は極めて古く社記によれば和銅二年(709)に社殿が創建されたとあり往古より「田村大社(たむらたいし
ゃ)」「定水大明神(さだみずだいみょうじん)」又は「一宮大明神(いちのみやだいみょうじん)」とも称され、人々より
篤く崇敬されてきた。
 嘉祥二年(849)従五位下に叙せられ貞観三年(861)官社となり名神大社に列せられ、讃岐國の一宮に定められて後は度々神階を授けられ建仁元年(1201)正一位の極位に叙せられた。
 室町時代、貞和二年(1346)管領細川頼之(ほそかわよりゆき)が領主だった時には社域を拡築して「一切経(いっさいきょう)」を奉納し、長禄四年(1460)細川勝元(ほそかわかつもと)は社頭に壁書を掲げさせて神事の厳粛に努めた。
 降って天正年間、仙石氏、生駒氏が此の地を領するのに及んで夫々社領を寄進し、江戸時代明暦元年(1655)松平頼重(まつだいらよりしげ)が国守に任ぜられた時には社殿を修造して更に社領を寄進し、延宝七年(1679)には神仏習合を廃し、江戸時代の初期に於いて早くも唯一神道の道を開き爾来松平家の祈願所として累代社領を寄進、或いは家宝を奉納する等、武門・幕府からも崇敬も篤かった。
 明治四年(1871)には、新しい神祇制度のもと国幣中社に列せられ、現在は神社本庁統括のもと別表神社となっている。
 当神社奥殿の床下には深淵が在り、厚板でこれを覆い殿内は盛夏といえども凄冷の気が満ちていて古くから神秘を伝えている。又領内で水旱(すいかん)があれば領主奉行は必ず先ず当社に祈願したといい、定水大明神と称される所以である。

一、社記の一節珍事録(高松藩寛永十九年より享保十七年に至る記録による)
 明暦元年(1655)神社より社殿の改築工事の申請を受けた普請(ふしん)奉行竹村斉庵(たけむらさいあん)は神官へ社の下の淵を見たいと言い出した。困った神官はどんな祟りがあるか分からないと断ったが、それでも是非見たいと言うので神官はそれではと淵を見せた所しばらくして水が逆巻き上り、其の中から竜が紅の舌を巻き三間ほど頭を出して斉庵をにらんだ。斉庵は心地悪くなり、駕籠(かご)で家に帰り、家内へその仔細をいいつつ死んでしまった。
 その後工事も半ばになった時、淵の蓋の真中に二尺ほどの穴が明いていて、その穴へ鑿(のみ)を落とし込んでしまった。するとしばらくして竜が現れその鑿を角に掛けて差出した。大工は恐れて足で鑿を挟み上げたところ大工はたちまちに死んでしまった。誠に生き神の報いであり恐ろしいことである。
 (神社パンフレットより抜粋)
参拝月日  09/23/2008

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大鳥居 拝殿