周防國一の宮 「式内社」玉祖(たまのおや)神社

鎮座地 〒747-0065 山口県防府市大崎1690    
電話  0835-21-3915 
旧社格等  国幣中社  現別表神社
 周防国一の宮
式内社 周防國佐波郡 玉祖神社2座
御祭神 玉祖命(たまのおやのみこと)
今一座未詳
御由緒  社名
古書には玉祖をタマオヤノとかタマノオヤノと訓じているが、古来周防一ノ宮であったところから、中世には「一の宮」の呼称が行なわれ、江戸時代では「一宮玉祖社」(いちのみやたまのおやしゃ)という名称が一般的であった。
明治四年(一八七一)国幣社に列格以来玉祖神社(たまのおやじんじゃ)の呼称に統一され今日に至っている。

 祭神
延喜式神名帳には玉祖神社二座とあって神名は明示されていないが、主神は玉祖命で今一座は不詳である。
玉祖命は玉造連(たますりのむらじ)の祖神で三種の神器の一つ、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を造られた神で別名櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)、羽明玉命(はあかるたまのみこと)、豊玉命(とよたまのみこと)、玉屋命(たまのやのみこと)とも称す。
 不詳の一座は神主土屋家文書や防長風土注進案では、天鏡尊(あめのかがみのみこと)、天日神尊(あまのかかみのみこと)とし、鏡を御霊代として日神と仰奉る天照大神ではないかとしているが、その天照大神を御祖神として、浜宮御祖神社(はまみやみおやじんじゃ)を当てた時代もあり、氏子中には女子の初宮詣には必ず浜宮御祖神社へも参る古習があるので、祭神を女神とするものや、玉祖命の母神とする説などがあるが未だ定説はない。しかし、祭典に当っては常に二座分の御供物を献奉る仕来になっている。

 由緒・沿革
天照大神の天岩戸隠の神事で玉祖命は八坂瓊曲玉を造られ、その後天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)が日向国に降臨の時供奉した五伴緒神(いつとものおのかみ)の一柱として国土統治の御創業を補佐されたことは記紀に載るところであるが、社伝には、後にこの大前(おおさき・大崎)の地に座して中国地方を平定し、ついにこの地で神避りました後、御祖(みそ・江良)の地(玉の岩屋)に葬り、その威霊を祀たのが当社の起源とし創建年月は不詳であるが、以後、玉造連玉祖氏が祭祀を司ったと思われ、史料にも天平十年(七三八)の周防国正税帳に祢奇(祢宜)玉造部五百背の名が、更に長徳四年(九九八)今昔物語巻十七に宮司玉祖惟高の名が見える。
 社記には景行天皇十二年(八二)筑紫行幸の砌、周防裟婆(さば)に行在所を設けられたのが玉祖神社北方の宮城の森であると伝え、その節剣を奉納されたが、今御殿奥深くに宝剣として奉安されている。
また、仲哀天皇・神功皇后西征の折も寄江(よりえ・神社の西南)という浜に着船、高田の土を以て沢田長(佐野焼陶工の始祖)に三足の土鼎(なべ)とHIRAKA(はち)を作らせ、神供を備えて軍の吉凶を卜された。これが今も伝わる占手神事の起源である。
 確実な史料で沿革をたどると、
天平八年(七三六)より十年までの三年間、玉祖神社領の田租穀三十九石二斗八升を奉免翌年周防国の正税より頴稲三千八百三十四束を以て神税として奉納された。神命に依て祢奇玉作部五百背にも二百束が給される。
大同元年(八〇六)には従来の封戸十戸のほかに五戸を賜わる。
貞観九年(八六七)三月十日、神階従四位下より従三位に昇る。
延長五年(九二七)延喜式神名帳に玉祖神社二座と載る。
康保元年(九六四)四月二日、神階正二位から従一位を授る。
平安時代には田島庄、小俣庄、高墓庄の三荘園が寄進される。
長徳四年(九九八)今昔物語中に周防国一宮玉祖大神と全国一ノ宮の初見となる。
天治二年(一一二五)安芸權介藤原實明によって荘園並びに神社敷地ともども鳥羽天皇中宮の待賢門院に寄進される。
保延三年(一一三七)實明の寄進状及び公験に基づいて京都花園の法金剛院に寄進。
永萬元年(一一六五)神祇官から名神諸社に進物が下された際、大榑(材木)三百寸が給される。
建久六年(一一九五)八月五日、俊乗坊重源周防に下向、東大寺再興の功を偏に玉祖大明神の加護によるところとし、当社造替の工を起し、神宝を調進し、九月二十八日遷宮の儀を終える。日別供料の料田として十町歩の田地を奉免する。同日、造替目録を作成し改築の趣旨を述べる。
建武二年(一三三五)九月、大内弘幸が社殿・神宝を造営。
正平十一年(一三五六)僧命俊、九曜巴文双雀鏡を奉納。
長禄元年(一四五七)八月、田島(防府市中関)の氏子分離し岡庄(中関南山手)に玉祖神社を祀る。
文明十一年(一四七九)十二月八日、大内政弘に差出した一宮玉祖社御神用米在所注文は大前(崎)村、宇野令、湯田保、黒河保、千代丸、下松出作、富海保、西仁井令、佐波令平井の十個所に及ぶ。
明応六年(一四九七)四月十六日、大内義興参詣し神馬を寄進。
天正十七年(一五八九)十一月二日、毛利輝元、社領二百石を寄進。この年より文禄五年(一五九六慶長元年)四月二十三日までの打渡坪付に法金剛院、得楽坊、菊楽坊、正満坊善得坊、正法院、宝持院、藏満坊、行泉坊の名が見える。
慶長三年(一五九八)九月、社殿、社坊、社人の屋敷等も悉く焼亡す。
慶長十四年(一六○九)九月、毛利秀就社殿再興。
寛永二十一年(一六四四正保元年)八月、鳥居建立。
明暦三年(一六五七)八月、毛利就信(右田毛利)馬場に大鳥居建立。
寛保元年(一七四一)九月十九日、往昔供僧十二口ありしが、十一ケ寺はことごとく断絶寺屋敷も不明となり、別当得楽坊のみが残存す。
寛延三年(一七五○)七月、毛利宗広により社殿造替。同時、滝長ANI が玉祖神祠記他三巻を納む。文中に「源義経平家追討の時、吉包の太刀を御社に奉りて必勝を祈らる。尊氏将軍筑紫より進発の時、猛房の太刀を奉りて大功の成就せんことを祈らる。二振の太刀今に伝へて神器とす」とあり、宝暦九年(一七五九)三月二十三日付一宮御宝物入日記に二振の太刀が記載されている。
嘉永七年(一八五四安政元年)社殿大修繕。
明治四年(一八七一)大政官布告により国幣小社に列す。
明治六年(一八七三)佐野若宮社が玉祖神社摂社に列格。
明治十年(一八七七)浜宮御祖神社も玉祖神社摂社に列格。
明治十一年(一八七八)官費により大修繕。
大正四年(一九一五)国幣中社に昇格。
戦後は社格制度が廃止され、旧官国幣社は別表にかかげる神社として一般の神社と区別され、別表神社となる。
昭和五十年(一九七五)御神庫(宝物殿)新築。
昭和五十二年(一九七七)九月御神殿、拝殿、神門等屋根総葺替。          
昭和五十七年(一九八二)四月八日、山陽自動車道建設に伴い浜宮御祖神社を旧社地北方約百五十メ−トルの地に遷す。この年本社参道も短縮される。

 (平成祭データ)
参拝月日  08/21/2004



参道入り口の鳥居

参道の鳥居

ご由緒

神門

神門から拝殿

拝殿

拝殿と本殿


岸信介の書

天然記念物
黒柏