近江國一の宮「式内社」建部大社(たけべ) HOME blog

鎮座地 〒520-2132 滋賀県大津市神領1丁目16-1 旧近江国 栗太郡 
電話  077-545-4663
旧社格等  官幣大社(現別表神社)
近江國一宮
式内社 近江國栗太郡 建部神社 名神大
御祭神  ・日本武尊
(配祀)
 ・天照皇大神
 ・大己貴命
御由緒 御祭神
 本殿 日本武尊
 相殿 天照皇大神
 権殿 大己貴命 大国主命
  摂社 四社  末社 八社
御由緒
 当社は古来建部大社、建部大明神などど称え、延喜式内名神大社に列し、又近江国の一の宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社である。
 御祭神日本武尊は御年僅に十六才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に三十二才にして伊勢の能褒野に於て崩御されたが、父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ御名代として建部を定めその功名を伝えられた(日本書記にしるされている)これが即ち建部の起源である。
 景行天皇の四十六年(約一八六〇年余前)神勅により御妃布多遅比売命(父は近江安国造)が、御子稲依別王と共に住われた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳四年(昭和五十年から数えて千三百年)当時近江国府の所在地であった当瀬田の地に迂祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社である。
 歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙に遑なく、就中源頼朝は、平家に捕われ、十四才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永歴元年(一一六〇年)三月二十日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されている。頼朝は遂に源氏再興の宿願成って、建久元年(一一九〇年)十一月右大将として上洛の際再び社前に額き曩年の祈願成就の神慮に対し、幾多の神宝の神領を寄進して奉賽の誠を尽されたのである。
 爾来当社が出世開運、除災厄除、商売繁昌、縁結び、医薬醸造の神とて広く崇敬される所以である。
 明治十八年四月官幣中社に、同三十二年七月官幣大社に列し、国家最高の社格を与えられた。昭和五十年四月十五日御鎮座壱千参百年式年大祭を斎行し、これに伴う記念諸事業の完遂により、御社頭は面目をあらたに、御神威の程畏き極みである。
御神徳
 昭和五十年四月「建部大社」と御社名が改称され、名実共に御祭神を同じくする全国二千数百社の代表社として認承されたことは、神社史上洵に意義深い次第である。
 氏子崇敬者はこれを慶祝、協賛し、第一参道入口に大社号柱が建立され、併せて大鳥居に大社号額が掲げられ永く御神威を後世に伝え、弥々御神徳の頌揚を願っている。
宝物
 女神像三躯 石灯籠一基 文永七年(一二七〇) (重文)
境内地
 三万平方メートル 社有地 九万平方メートルに及ぶ。 
 (社頭案内板より抜粋、原文のまま、一部推測)

近江一の宮
  建部大社
御祭神
 本殿 日本武尊
  相殿 天明玉命
 権殿 大己貴命
由緒
 当社は近江国の一の宮と称えられ、景行天皇四十六年(西暦三一六)四月神崎郡建部郷千草嶽に、日本武尊の御神灵を建部大神としてお祀りしたのが創りである。
 天武天皇白鳳四年(六七五)四月に近江国府のあった瀬田の地にお迂し、此の国の守護神として仰ぎ奉られる様になった。
 天平勝宝七年(七五五)には孝徳天皇の詔により大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し権殿に奉祭せられ現在に至っている。
例大祭 四月十五日
船幸祭 八月十七日
 (参道由緒掲示板より) 
参拝月日  08/22/2008

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参道の鳥居 社殿全景