御由緒 |
安芸国開祖 多家神社 (埃宮)
主祭神 神武天皇(神倭伊波礼毘古尊、勝利開運、事始、政治の神)
初代天皇(紀元前六六〇年即位)
安芸津彦命(安芸国の開祖神)
相殿神 神功皇后(第十四代仲哀天皇の皇后)
応神天皇(第十五代天皇) {交通、厄難除、安産、育児の神}
大己貴命(大国主神、招福開運、商業、医薬、健康、縁結びの神)
摂末社 貴船神社(高竜神、別雷神、大山津見神)
由緒 この地は、神武天皇が日本を平定するため御東征の折、お立ち寄りになられた所と伝わる。『古事記(七一二年完成)』に阿岐国(安芸国)の多祁理宮に神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が七年坐すとあり。『日本書紀(七二〇年完成)』には埃宮に坐すとある。この多祁理宮あるいは埃宮という神武天皇の皇居が後に当社となった。
平安時代になると、菅原道真が編し始めた「延喜式」(九二七年完成)に安芸国の名神大社三社の一つとして多家神社の名が記され、伊都岐島神社(厳島神社)、速谷神社とともに全国屈指の大社とあがめられた。当時の主祭神は安芸国を開いた安芸津彦命ほか六柱の神々であった。
中世になると武士の抗争により社運が衰え、江戸時代には南氏子(松崎八幡宮)と北氏子(総社)に分れ、互いに多家神ないし埃宮を主張して論争対立が絶えなかった。
そこで明治六年(一八七三)になって、松崎八幡宮と総社を合わせ、「誰曽廼森(たれそのもり)」(現在の社地)に、旧広島藩領内で厳島神社に次いで華美を誇った、広島城三の丸稲荷社の社殿を移築して多家神社を復興した。
明治七年県社となった。その後、多くの村社小社を廃して多家神社に合祀した。
大正四年(一九一五)九月、社殿を焼失したが、全県的な奉賛を得て大正十一年四月、今日の本殿、拝殿などを再建、境内の整備を行った。なお、境内の宝蔵は三の丸稲荷社より移築した社殿の唯一の遺構であり、今となっては広島城内にあった現存唯一の建物として貴重である。現在、県指定文化財となっている。
たれその森について 「誰曽廼森」と記されている。神武天皇が、当地の者に「曽(そ)は誰(たれ)そ」 とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている。
(社頭由緒掲示板より)
多家神社略誌
当多家神社は神武天皇御留蹕霊地なり神武天皇は紀元前七年の十二月二十七日に安芸の埃宮即ち当神社の下に御着船になり誰曽廼森に御上陸せらる。
昔府中町は全部海であって此の一帯を江の湊と呼んでいた。
古事記という書物には「神武天皇阿岐国多祁理宮に七年坐しましき」とあり。
日本書紀という書物には「神武天皇安芸国に坐して埃宮に坐します」とあり故に当多家神社は別名埃宮とも多祁理の宮とも云われる。大正四年夏の火災に校倉を残し社殿を全焼す、大正十一年現在の社殿を再建した。当社にある校倉の校子は四角の木で造ったもので日本中にある他の三十棟の校倉は三角の木で造った校子である故に当社の校倉は国宝級のもので日本で只一棟あるのみである。
以上
昭和四十七年七月五日
府中町
府中町教育委員会
(社前案内板より)
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