御由緒 |
祭神
玉依姫命(たまよりひめのみこと)
應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
祭典
一月 一日 歳旦祭
二月 三日 節分祭
七月十五日 夏越祭
八月第一土曜 獅子祭
十月十三日 宮座
十月十五日 秋季大祭
十一月十五日 七五三祭
当高宮八幡宮は社記によれば、天智天皇磐瀬行宮にあらせられた時、神功皇后ゆかりの地として、この所を御奉祀あらせられたという。
その後、寛仁年中(1017年頃)岩戸小卿大蔵種直に至りて社殿を造営して武運を祈り、代々崇尊、南蛮夷の賊並に刀伊の賊討伐の際、最も神威を顕はし給うたという。又、建久年中(1190年頃)原田家が怡土郡の高祖城に移ってから、当神社を高宮の西南、宮の尾に遷し、高宮・平尾・野間三村の氏神、那珂郡の鎮守の神として里人の崇敬を集め神域は高燥の地を占め、老樹鬱然と幽邃を極めた。
関が原の役後、黒田長政公入国後は、当社を武運祈願の神社として木造の鳥居の御寄進がありその地を鳥居の下と云い、流鏑馬奉納の地を馬場と云い伝えており、慶長七年(1602年)本営を古営の跡東南の地に遷座し奉り、分霊を平尾・野間の両村へ勧請して現在に至っている。
又、当宮は古く安産の守神として宇佐八幡宮から勧請して奉祀してあったが、三百七十年余前、黒田藩の武士が妻の安産祈願をしたところ、玉の如き男の子を出産した。この子が長じて十七才の時、一本の棒を持って諸剣士と試合をなし、電光石火、急所を突いて次々と相手を打ち負かした。これが黒田藩独特の杖術を始めた夢想権之助である。夢想権之助は神社神域の隣、大森二郎氏の先祖と共に、黒田藩の指南役として奉仕した。この縁によって後に当社を黒田藩の杖術槍術の祈願社とされた。
なお、現在黒田藩に残る抱大砲の西洋兵術は、肥前鍋島藩と共に長崎からいち早く伝わったものであるが、この砲術発達の基礎となった。両脚を開き、腰を落して前かがみになり、臍下に力を入れて火薬に火が付くのを待つ。この腹力の入れ方は、権之助が始めた杖術の呼吸を学びとったものである。
平成二年十一月吉日改装 本文井上瑞衛撰定 不破又一郎謹書
(境内由緒掲示板より)
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