御由緒 |
由緒
社伝に日本武尊のご創建と伝え、陽成天皇元慶元年五月十七日、授上総国勲五等正五位の下。光孝天皇八年七月十五日、授上総国勲五等正五位の上、橘神、日本武尊、忍山宿祢二神を合祀すと記す。
延喜式内小社。
正慶二年九月、寛政十三年五月にそれぞれ改築。
明治六年五月三十日県社に列す。
(平成祭データ)
本納の地は、古くは上総国長柄郡本納村と称します。
その地に鎮座まします氏神「橘樹神社」(たちばなじんじゃ)と読みます。中世の文書には橘木社と記されているもの、また、江戸期には橘大明神とも言われて、土地の人たちには「橘さま」と親しみをもって呼ばれています。.
ご祭神は、「弟橘姫命」(おとたちばなひめのみこと)です。
相殿としては「日本武尊」(やまとたけるのみこと)と、弟橘姫命の父君である「忍山宿弥」(おしゃまのすくね)の二神が祀られています。
社伝の一説
日本武尊(やまとたけるのみこと)は、古事記・日本書記にあらわれる人物で、第十二代景行天皇(けいこうてんのう)の皇子であり武人の誉れ高き皇子でありました。
景行天皇二十八年(99)天皇の命を受け熊襲(くまそ)を征討し、四十年(111)には東夷(あずまえびす)の征討の命を受け出征し途中伊勢神宮に参拝し、天叢雲剣を授けられ幾多の苦難を切り開き、さらに前進して相模(さがみ)から、上総(かずさ)を平定し剣を止めての帰路伊吹山にて病にかかり世を去ったとの説が伝わっています。
相模より上総に渡る際に海上にて暴風雨に遭遇し大変な苦難をした時に、尊の妃である弟橘姫が海中に身を投じ海神の怒りを鎮めた。尊はお陰で上総に上陸することができ、賊を平定して当本
納の地にたどり着いて、姫を弔う墳墓を築いて橘の樹を植えて墓標にしたと伝えられています。
この説話は、古事記に原形があり「弟橘姫命の入水から七日ありて後に姫の御櫛が海辺に依りきた
り、その櫛を取りて御墓を造り納めた。」とある。
社歴
〔三代実録 巻三十一〕
元慶元年五月十七日丁巳(877)
授上総国従五位上勲五等橘樹神社正五位下
〔同じ 巻四十六〕
元慶八年七月十五日発酉(885)
上総国正五位下勲五等橘神正五位上
永暦元年(1160)
「尼蓮西解文案(醍醐寺文書)」によると
比丘尼蓮西の父藤原適意によって当橘樹神社は鳥羽上皇に寄進せられ、上皇の皇女八粂院時子内親王
の御祈願所たる安楽寿院領となった。
延宝八年九月十九日(1681)
神部伊岐宿称の名で神道管領ト部兼連に告げる「宗源宣旨」によると橘神社を正一位に上叙する。
とある。
延宝八年九月中澣の日付により
橘神社祠官緑川時光の需(もとめ)に応じて神道官領ト部兼連が記した橘神社縁起一巻が現存して
いる。
(「橘樹神社の由来と郷土の歴史」より)
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