御由緒 |
須佐能袁神社由来
須佐能袁神社は建久八年竹井城主筑後国司草野太郎永平の勧請建立による勝光山祇園寺に起源するものである。
素戔鳴尊を祭神とし草野家累代崇敬の神社であったが、天正十五年豊臣秀吉九州平定に際し永平の末裔で発心城主草野右衛門鎮永が山門郡北の関で蜂須賀阿波守に謀殺され草野家滅亡すると共に荒廃し幾度か火災にあい神社の書類及び宝物等焼失して盛衰詳かならず。
爾来郷土草野の氏神として崇められて来たが社殿廃れ老朽極に達するに及び氏子心を一にして再建を計り分に応じ浄財を喜捨し明治十四年夏起工六年間の星霜を経て明治十九年十一月社殿神池等併せて竣工落慶せり。
その壮麗な建築様式と彫刻の調和は専門家の斉しく絶賛するところであり県はその文化財としての重要性を認め昭和三十二年四月福岡県指定文化財の(建第九号)指定を受け郷土の誇りとして親しまれて来た。
然るに建立後約百年を経るに及び拝殿・櫻門に蟻害・雨漏れ等老朽化激しく荒廃の兆し現る。
昭和五十二年夏より氏子・総代相計り浄財をもって修復することに決し県・及び市の補助を受け昭和五十三年冬より着工し同五十六年七月竣工す。
今こヽに祖先の偉功を偲ぶと共に郷土の誇りである社殿を守護し長く後世に伝えんとするものである。
昭和五十七年二月吉日
宮司 xxxx
(社頭改築記念碑より)
須佐能袁神社は往古の勝光山祇園寺に起源するもので、建久8年(1197年)竹井の城主であり筑後の国の国司であった草野太郎永平の開元建立による。
祭神は須佐能袁神を祀り草野家累代の崇敬せらるる神社たるも、天正16年草野家の末裔草野右衛門鎮永が秀吉九州平定の折蜂須賀家政のため山門郡南関に於て誘殺されしより草野家滅亡す。爾来草野家の氏神と斎き奉るに及ぶ。
明治14年夏里人等により再建の発議あり。氏子の浄財を得て普請の運びとなり6年の星霜後明治19年12月社殿築山泉水等落成す。昭和32年4月神殿拝殿楼門の建築学的特徴と美的構成の見事さを以って福岡県指定文化財となり郷土の誇りと親しまれてきた。その後社殿老朽化する度に県市の補助と地元の浄財により修復され今日に至っている。
(平成祭データ) |