菅原神社(福岡県北九州市小倉北区)          HOME

鎮座地 〒802-0082 福岡県北九州市小倉北区古船場町1−6  
電話  093-521-9421
御祭神 ・菅原道真
・豊日別尊(豊前・豊後の国の国神)
・木花咲耶媛命(花の神・山火鎮護・縁結び・子授・安産・妻の幸せを守る神・酒造の神)
・大山咋命(山の神・開拓土木建築・酒の神)
・市寸島比賣命(海の神・航海安全・漁業・運輸・五穀豊穣の神)
・豊總耳皇命(聖徳太子)
・景清霊(清水の神・目の神)
・宇迦之魂尊(五穀の神・稲荷神・商売繁盛・家内安全・
 交通安全・火災除け・災難除け・子孫繁栄・ 種子を生じ食料確保に大功績)
・猿田彦命(交通の神・産業の神・商売繁盛・厄除け・ 夫婦和合・長寿祈願・安産の神)
御由緒  菅原神社由緒書 
神社の創建と歴史

 右大臣・菅原道真公は延喜元年(901)四月二十五日、大宰権帥として京都より大宰府へ左遷され、筑紫へ向われる途中、神嶽川のほとり、とある小島に一休みされ、風光明媚な企救の浦を賞でられた後を伝え、菅公亡き後、その遺徳を偲び、一祠を建立したのが始まりです。
 −今に「天神島」との地名を残している−以来幾百星霜、この地の変遷とともに、その時々の人々の篤い信仰をうけ、農業・漁業・商業・産業また交通の神々を祀る末社を配し、小倉府内(城下町)の氏神として信仰を集め、明治十三年六月、国策によりこれらの末社(吉野社−古船場・松尾社−紺屋町・生目八幡神社−鍛冶町・高住神社−鍛冶町)を合祀し、今日に至っています。
 ここ小倉の地は、古来交通・軍事上の要衝の地であるため、各時代を通じて幾多の抗争の場となり、ことに南北朝期には中・小豪族の抗争が繰り返され、戦国期には島津・大友・毛利氏の抗争の場となり、特に大友宗麟はこの小倉の地を一村一家残すことなく焼き払ったと伝う。しかしながら「本社」は庶民の天神信仰に支えられ、そのたびに再建された。
 その後戦国の動乱もおさまり、慶長七年(1602)一月細川忠興が小倉城築城をみぎり、一小祠となっていた「本社」を瀧本院とともに配祠し、城下民の信仰のすすめ、さらに寛永九年(1632)二月小笠原忠真が十五万国の藩主として入城後、夫人永貞院の尊崇特に厚く、若君(二大藩主忠雄)の養育に学問の神・菅公の教訓を以て当たったことにより、忠真は慶安元年(1648)二月に社殿を修築し、神宝を納め、公式に城下民子女の「教育祈願所」と定め、次いで寛文元年(1661)二月には拝殿を増築し、「威徳寺」の尊号と偏額を奉納し、この年九月二十五日には特に盛大な祭典を執行した。
 「二十五の菩薩引き連れ、出雲に乗りて、さき立つ神まつりかな。忠真」と、和歌の奉納があり、以来連歌の例しとなった。貞享四年(1678)境内のなかに「浮鷺の池」を造り、神苑を整え、十一面観世音菩薩を左側に安置し、改めて国主となった二代藩主忠雄は、幼少よりの成育の願解きをなし、以来「若君」の養育祈願は累代に及び、城下民もこれに習い、子女の健やかな成長を願う城下民の「養育守護」の神としても信仰を集めた。
 当時、神社においては春の例祭は「菜の花祭り」と称せられ、菜の花の生け花を捧げる行事が行われ、城下民の子弟は手習師匠に引率され、礼儀正しい参拝がなされた、と伝えられ、夏祭りは「千燈明祭り」−別名(願かけ燈明)(満願燈明)−と称され、境内は「浮鷺の池」を中心に「数百の燈灯の明かりで昼のごとく、参拝者で境内は身動きもできぬ程なり。」と記録に残されている。
 幕末に至り、慶応二年(1866)八月一日の戦火−これを小倉では「御変動」と称している−で小倉の町共々焼失したことに加え、明治初年の「神仏分離の制」の混乱で、神苑の維持も困難になり、御神体は一時、仲津郡国分村(現在の京都郡国分寺)に遷座されたが、明治二十五年(1892)九月、当時の小倉市長吉沢直行・初代企救群長津田維寧外数十名の熱心な請願をきっかけとして、全小倉の氏子・信徒の手に依り旧社地に立派に再建され、(神社棟札記)さらに現社殿は昭和三十七年に再建された。(この時神苑の敷地の関係で「浮鷺の池」は埋められた。)
 このように、ここ小倉の天神島に千数十年前当時の村人の手に依り祀られて以来、神社は、現在まで小倉の地に生きた人々と共にその盛衰を経てきた。
 神社に残る鳥居・灯篭・玉垣等は近世以後のものとしてもこの社を通じて氏子崇敬者の古い祖先の子孫養育守護の念が想われることであろう。
以上
(平成祭データ)
参拝月日  03/02/05

小倉駅近くの
繁華街に鎮座

境内には紅梅、白梅が
咲くが紅梅は蕾

境内

拝殿

小倉の天神島に
千数十年前当時の村人の手により奉られて以来、神社は現在まで小倉の地に生きた人々と共にその盛衰を経て来た

 御神牛
小倉府内の氏神
として今も市民に
親しまれている

拝殿内部

現社殿は
昭和37年に再建された

本殿