御由緒 |
正ノ宮正八幡神社由緒
その昔、当正ノ宮正八幡神社は、行事村・草野村・長音寺村・大橋村・宮市村・小部埜村六ヶ村の土地の霊魂を、この地に一ヶ所に集めて地底に封じ込めて小さな祠を造営し、「産土正宮」として六村の地域住民に崇められていました。
ところが貞観元年(八五九)のこと、宇佐八幡宮を京都の男山に勧請の際に、その御神輿の御旅所としてこの地に仮殿を構えて安置申し上げることがありました。そして翌朝御神輿が出発なされた後に、木綿垂を附けて献納したはずの榊が一本残されていたのを、人々はこれを大神御心にちがいないとして、その榊を大神の御璽として正宮の祠内に納めて宇佐八幡神を勧請申し上げました。
以後は「八幡正宮」と称して産徒の信仰も厚く往時には光養寺・東光寺・神宮寺と呼ばれた神護寺もあって、華麗な社殿が並び建ち多くの社家、社僧が奉仕したと言われるが、応永年間大友氏鑑の兵火に焼亡して今はただその地名を残しているだけであります。
寛永十年の夏の大祓祭の折「いんしゅ撃ち(宮市河原を挟んで石つぶてを投げ合う行事、あるいは青竹で叩き合う行事ともいわれる)」の神事が昂じて多くの怪我人が出るに及び、永い争論の末三村が離脱して現在のように行事・草野・長音寺三村の産土神として尊崇されてきました。
御祭神 誉田別命(応神天皇)・気長足姫命(神功皇后)・比咩大神。
境内社 水神社・火祖神社・菅原神社・厳島神社。
(平成祭データ)
行橋と森鴎外『小倉日記』
旧行橋町「今川、長峡川の河口に拓けた集落。旧豊前国京都郡と仲津郡境に立地。
明治22(1889)年、京都都行事村、仲津郡大橋村、宮市村の三村が合併。「行橋」は、行事の「行」と大橋の「橋」を採用し施行された町名です。
江戸時代は商業地域として発展し、蔵、屋敷、商家が立ち並ぶ在郷町でした。明治期には、郡役所、銀行、警察署、裁判所等が設置され、筑豊炭田の発展に伴い、鉄道が開通。大正末から昭和初期にかけて行橋町耕地整理事業が実施され、行橋駅周辺に、ほぼ現在の市街地の原型が形成されました。
昭和29(1954)年、近隣一町八村(行橋町、蓑島村、今元村、仲津村、泉村、椿市村、延永村、今川村、稗田村)が合併して「行橋市」となりました。
森鴎外の『小倉日記』
「明治時代の文豪・森鴎外(1862~1922年)は、陸軍第十二師団の軍医部長として小倉に赴任。『小倉日記』は、明治32(1899)年6月から35(1902)年4月までの2年10ケ月を九州の地で過した時につづられたものです。鴎外と行橋との関わりは深かったようで、行橋には三度訪れたことが記されています。
①明治33年10月13日 行事高等小学校にて講演
②明治34年7月3・4日 陸軍演習(7月3~9日)
③明治34年11月15日 行橋町散策
日記には、講演で訪れた行事高等小学校、料亭梅乃屋、柏木勘八郎邸、陸軍演習で宿泊した近江屋、清遊で参拝した草野正八幡宮(正ノ宮正八幡神社)、禅興寺などが登場します。
明治34年11月「15日。味爽、俊兢師来たりて、予を喚んで起たしめ、偕に行橋に行かんことを勧む。(中略)行橋に至る。草野八幡宮に詣づ。享保三年の石華表あり、猪熊、草野、長音寺の諸村を望む。師の従弟、山本勝平の家に午餐す。
午後、田畦を歩みて稗田村を望む。村上仏山の郷なり。
大橋の禅典寺を訪ふ。三時七分汽車に乗りて還る。
出典『森鴎外全集』第三十五巻
文中の「俊兢師」は、草野正八幡宮の宮司広瀬延孝の二男でした。玉水俊祇は、鴎外と親交のあった小倉安国寺住職です。また、享保3(1718)年の石筆表(小鳥居)は今も残っています。『小倉日記』は明治30年代の北部九州の歴史、民俗、人物、景観、町並み等が散見され、近代の当地域を知る上で貴重な資料です。
行橋市教育委員会
(社前案内板より)
|