椎尾八幡宮(しいのお)            HOME   blog 

鎮座地 〒741-0062 山口県岩国市岩国4丁目1−8 旧周防国 玖珂郡  
電話  0827-41-0867(社務所)0827-43-2970
御祭神  ・誉田別命 ほむだわけのみこと (應神天皇)
 ・足仲彦命 たらしなかつひこのみこと (仲哀天皇)
 ・息長帯比売命 おきながたらしひめのみこと (神功皇后)
(配祀)
 ・猿田彦神 さるたひこのかみ
旧社格等  郷社 
御由緒   椎尾八幡宮略縁起
 御祭神 誉田別命 ・足仲彦命 ・息長帯比売命
  相殿 猿田彦神
 當宮は後水尾天皇の寛永三年(1626)に、時の岩国二代藩主吉川美濃守廣正公が、吉川歴朝の守護神である駿河八幡宮(この駿河八幡宮は吉川氏の始祖、経義公が、その昔、駿河国有度郡吉河邑(今の静岡県清水市)に住し、其の地方の豪族として在りし頃、文治二年(1186)に鎌倉の鶴岡八幡宮より神霊を勧請したるに起因す。)の神霊を郡内由宇村より現地に奉遷し、同時に、太古、岩国山東北の谷に古き社祠あり。山麓の谷々は現在和木町に属する瀬田、関ケ浜部落で、其の地に椎尾と称する地名あり、古き社祠にて猿田彦神を祀る。此の神、伝えによれば、遠き神代の昔、皇孫御降臨の砌り、道案内として、此の岩国山を御通過の折、暫く伊勢ケ丘の峯にて御腰をかけ給い因縁あり。その神跡を偲びてか、往古より道中安全の守護神として広く旅人に崇められ、聖武天皇天平二年(730)大宰小典山口忌寸若麻呂、この山を越す時、「周防なる磐国山を越えむ日は手向けよくせよあらき其の道」(万葉集巻四)に詠めり。それより後、後土御門天皇文明十二年(1480)宗祇法師諸国行脚の砌り、この山に差しかゝり無礼あり、彼が馬、俄に倒れて進まず、宗祇は困り里人に助けを求めた処、里人この時、此の神「人の不浄不敬を咎め給う事、諸神にまされり、旅人神慮に添わざる振舞あらば其の誤りを謝して祈り給え」と話す。宗祇神前に額づき誓願誠心を尽くすと馬、不思議に前の如く進み、宗祇この時、万葉の歌を飜詠して「周防なる岩国山を越えむ日は手向けよくせよ荒木楚の神」と詠めり。是より此の神を荒競の神とも云い、別名、荒木曽神社とも称さる。則ち、藩主吉川廣正公、この神霊と八幡大神とを合せ祀りて、現地山陵を切開き祠殿を建立して、茲に、号を椎尾八幡宮と称し、爾来吉川歴代藩主にあっても代々厚く崇敬せられ、更に岩国藩国家万民の鎮護社として、また、當町
郷人の産土神として、広く世人の敬仰さるゝ宗社として現今に至れり。
  椎尾八幡宮
(境内案内板より) 

沿革
◎文治二年(1186)平安時代末期
 吉川氏の始祖経義公が、鶴岡八幡宮より神霊を駿河国有度郡吉川村(今の静岡県清水市)に、
 吉川 氏一門の氏神として勧請して一社を創建する。
◎正和二年(1313)鎌倉時代
 五代経高公の代に、安芸国山県郡大朝に移住の時、遷祀して駿河八幡宮と称して奉祀する。
◎天正十五年(1587)安土桃山期
 一七代広家公が出雲国富田城に入府の時、同所の富田八幡宮の相殿に遷祀された。
◎慶長五年(1600)関ケ原の戦い後、江戸時代
 吉川氏は岩国に移封された。
 当初玖珂郡由宇郷に仮館を築いて尊祀、のち岩国横山を永住の地と定め、築城並びに城下町の
 屋敷割りに着手した。この時は、末だ仮館に神霊は残置されたまゝであった。
◎寛永三年(1626)
 岩国二代藩主広正公が岩国山南麓の現地に社殿を造営して奉遷した。
 同時に太古の官道、岩国山の椎尾の地に古くより祀 られていた猿田彦神(椎尾社)を合祀し、
 社号を椎尾八幡宮と称して奉斎する。その後、社領を賜わり岩国城下町の産土神となり、更に
 国の守護神として歴代藩主の武運長久・国家安泰・万民豊楽を祈る鎮護社となった。
 こうしたことから、広く領民にも敬仰される崇敬社として、領民の厚い信仰を集めた。
 殊に御祭礼日にあたっては歴代 藩主の御代参があった。
 したがって、代々藩主の信仰も厚く、寛文(1661〜)・万治(1658〜)・延宝(1673〜)・元禄
 (1688〜)・享保(1716〜)・天明(1781〜)と、相次いで社殿の修造や御再興が行われた。
 また、神輿・祭具・幣皇料等の御寄進は度々あり、取り分け式年に執行さる三三年大祭は、
 城下町であったため遠近から人々が群集して大変賑々しく、藩内諸社随一の大祭であったと云う。
◎明治六年(1873)郷社に列する。

(山口縣神社誌より)
参拝月日  11/24/2006

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              一の鳥居                                 社殿全景