狭野神社(さの) HOME blog

鎮座地 〒889-4414 宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田120 旧日向国 諸県郡   
電話  0984-42-1007
旧社格等  官幣大社宮崎神宮別宮 (現別表神社)
御祭神  ・神倭伊波禮彦天皇
(合祀)
 ・吾平津姫命 ・天津彦彦火瓊瓊杵尊 ・木花開耶姫命 ・彦火火出見尊 ・豐玉姫命
 ・彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊 ・玉依姫命
御由緒    狭野神社略記
一、御鎮座地
 天孫降臨の聖地と伝える高千穂峯を真近に望む此の狭野の地は、往古の日向国諸県郡の地にして、神武天皇御降誕の霊跡である。
 神武天皇の御幼名を狭野尊と奉称するは狭野の地名によるものと言われ、当神社は此の由緒に因み、高千穂峯東麓の地に御鎮座遊ばさる。
一、御由緒
 社伝によれば当神社の創建は非常に古く人皇第五代孝昭天皇の御代に、神武天皇御降誕の霊跡を卜して御創建せられたと伝えている。降って人皇第六十二代村上天皇の御代、天暦年間に僧性空上人が霧島山に庵を結び高千穂峯を中心として六社並びに梵刹を建て、霧島山背門丘に即ち霧島中央大権現を祭り各所に霧島六社権現なるものを創始したが、その中に狭野大権現も含まれ、後の神徳院は即ち当神社の別当寺であった。
 山上背門丘に在った中央大権現は別当寺を瀬多尾寺と称し、仁明天皇承和四年に官社に預かり、延喜式に「諸県郡一座小霧島神社」と所載せられた神社と思惟せられ、「当霧島狭野神社が即ちこの式内社であると思われる。」当狭野神社も古くは霧島狭野神社と称したと古記録に記載されている。
 北諸県郡西嶽村に鎮座まします千足神社に宝蔵する所謂延喜式の御神像はかって神社に存したものと伝えられ、当社が古来尊崇の篤い神社であったことが知られるのである。
当神社は霧島山ろくにあるお社であるため、往古よりたびたび噴火の被害を被っている。その主なる噴火は次のごとく伝えている。
 人皇第五十代桓武天皇の延暦七年三月、霧島山は火を噴き黒煙天を覆い砂石を降らし山麓五、六里にわたって灰砂の堆積すること二、三尺に及び、当社の社殿は焼亡の厄に遭われた。その後数回の噴火があり殊に人皇第八十七代四条天皇の文暦元年十二月二十八日には、霧島山は鳴動し焔石を飛ばし熱砂を降らし、社殿寺宇悉く焼亡したので、御神体を今の北諸県郡高崎町東霧島神社に奉遷した。
 ここに鎮座される事凡そ三百年に及び、人皇第百五代後奈良天皇の天文十二年に至り、噴火も漸く終息し平静に帰したので、藩主島津貴久公は高原町西麓鎮守神社に仮宮を営んで遷座したが、慶長十五年に至り再び狭野の旧蹟に御遷し奉った。
 寛永十二年二月二十九日又山火のために寺院焼失し、歴代の重宝旧記は悉く灰燼に帰した。更に享保元年九月二十六日又もや霧島山に大爆発あり、社殿は無事であったが別当寺は焼亡したと言う。同三年一月三日再び猛烈なる噴火が起り、社頭、門前花堂、高松の諸部落は悉く焼失したので、当社の神人僧侶は御神輿を守護し奉って現在の小林市細野に在る霧島岑神社の別当寺であったと伝える宝光院(神徳院の末寺)に遷座し奉った。
 同五年狭野の地に仮殿、仮寺の御造営を畢り翌六年二月五日小林より現在地に還御し奉った。その後久しく平穏なりし霧島山も明治三十年前後たびたび噴火したが、下って大正三年正月には鹿児島県桜島の大爆発と前後して噴火し、近く昭和三十四年二月十七日には新燃岳突如として大爆発したが、神社その他には被害はなかった。
 明治維新の神仏分離に際して神徳院も廃止、明治三十二年宮崎宮に(現在の宮崎神宮)於いて神武天皇御降誕大祭会が組織せられ、四月大祭の斎行せらるるや当社に於いても厳かなる祭典が斎行された。又、此の大祭会に於いて宮崎宮社殿が狭野杉をもって改築されることとなり、その旧社殿は当社に寄進せられ、明治三十九年四月十三日より社殿の移転に着手し、同四十年五月十八日に竣工。同年五月三十一日本宮遷座祭を斎行、又十月二十三日には同会総理二条基弘公の参向を得て盛大なる竣工奉告祭を斎行した。
 かねて当神社氏子が永年要望していた官幣社へ昇格の件願出のところ、大正四年六月一日付を以て官幣大社宮崎神宮別宮に指定せられた。
昭和二十年八月十五日には大東亜戦争終結、新しく宗教法人として創立を見たのである。そして昭和二十七年七月三十一日には宮崎神宮より分立し、以後単独の狭野神社として発足したのである。
 更に昭和五十一年七月一日にはかねて待望の別表神社列格(旧官幣社)の承認を受け奉告祭を斎行。なお別表神社列格の記念事業として外拝殿の建設を行ない、同五十二年三月二十日竣工し盛大な竣工奉告祭をとり行った。
一、神領並境内地
 社伝によれば当神社は古く南北千間、東西二千間の神領(狭野原全域)が存在したと伝えられ、又は薩摩藩主より社領五百石の寄進があったと伝えているが、明治十二年境内地の大部分が官有となった。その後明治三十一年七月境内復旧の件を出願の処、同三十三年三月三十日付復旧の儀が認可された。
 現在の境内地は約二万三千六百余坪にして、氏子は高原町全域に亘り世帯数は約二千戸である。
一、皇室の御崇敬
 明治四十年十一月、大正天皇は皇太子として宮崎県行啓の砌高辻侍従を御差遣の上神饌幣帛料を御奉献あらせられた。
 大正九年三月、昭和天皇は皇太子として本県行啓に際し、同月二十七日御参拝幣帛料を供進あらせられ、終わって招霊樹の御手植を遊ばされた。
 大正十二年五月久迩宮邦彦王殿下御一行(御四方良子女王殿下を含む)本県御成に際し、同月二十日御参拝玉串料のご奉献あり、終って樅樹の御手植を遊ばされた。
 大正十四年二月二十七日秩父宮雍仁親王殿下には鹿児島県より霧島御登山ご下山後御参拝あらせられ、幣帛料を御奉納あらせられた。
 大正十四年三月八日伏見宮博恭王殿下御参拝、玉串料のご奉献並びに楠樹の御手植を遊ばされた。
 昭和六年十一月熊本県下に於いて御挙行の陸軍特別大演習御陪観の途上、本県御成の閑院宮戴仁親王殿下には、同月八日御参拝玉串料を御奉納あらせられた。
 昭和九年四月十日高松宮宣仁親王殿下御参拝玉串料の奉納並びに樅樹の御手植あり、是れより先皇子原聖蹟を御視察あらせられた。
 昭和九年十月神武天皇御東遷二千六百年記念祭台臨の為、秩父宮雍仁親王殿下同妃勢津子殿下には本県御成に際し、同月六日御参拝玉串料の御奉献あり、後皇子原聖蹟を御視察あらせられた。
 昭和十年十一月宮崎鹿児島両県下に於いて陸軍特別大演習挙行せられるに際し、同月九日御陪観の梨本宮守正王殿下並びに朝香宮鳩彦王殿下御参拝、玉串料の御奉献あらせられ、皇子原聖蹟を御視察あらせられた。なお大演習御統裁中の天皇陛下には甘露寺侍従を御使として御差遣遊ばされ、神饌幣帛料を御奉納遊ばされた。
 昭和十四年六月二十日朝香宮鳩彦王殿下御参拝、玉串料の御奉献あり皇子原聖蹟を御視察あらせられた。
 昭和十七年九月四日三笠宮崇仁親王殿下には高千穂峯御登山あり、御下山後社務所に御小憩後、御参拝あらせられ幣帛料を御奉献あらせられた。
一、武将の信仰其他
 由来当神社は高千穂峯度々の噴火のために御遷座せられた事は既に記した通りであるが、その御遷座の度毎に神威如はり、旧藩主は代々霧島六社権現の中最も篤い信仰を寄せられた。天正四年島津氏がこの地を領するに及んで尊崇最も篤く、藩主島津義久公は高五百石の社領を寄進せられ、遷宮其他歳時の祭典には藩主の直参又代参等のことがあり、慶長の世より明治維新まで改築及び修繕等十回に亘ったが、これらはすべて藩費を以てせられたと伝えて居りその篤い信仰の程を知る事が出来るのである。
 次に文禄の初年豊臣秀吉半島出兵の折、島津義弘公も出陣に際し、当神社へ戦勝祈願のことあり、凱旋の後慶長年代に至り祈願奉賽として重臣新納武蔵守を遣はし、境内全般に杉を栽植奉納せられた。時の神徳院住職は宥淳法院であったと言う。現在境内に欝蒼として天を摩してそびえる老杉が即ちこれであっれ、大正十三年十二月天然記念物の指定を受けている。
 又毎年五月初旬に飛来してこの老杉の空洞に巣食い、雛を育て、樹間を飛回り九月上旬に飛去る。仏法僧鳥も、昭和九年五月天然記念物に指定されている。
一、特殊神事
 当神社の特殊神事としては次のごとき行事があり、何れも古い伝統を有し古風豊かなものである。
(イ)苗代田祭(二月十八日春祭当日午前十一時より)
(ロ)御田植祭(五月十六日田植祭当日棒踊を奉納す)
(ハ)狭野神楽(毎年十二月上旬第一土曜日)
 苗代田祭は春祭(祈年祭)終了后引続き社頭に於いて行われる。俗に「ベブガハホ」と言う行事で、右は何れも天孫降臨並びに神武天皇御降誕の御由緒に因み農業に基づく神事として発達したもので、苗代田祭は種蒔の際苗代を整える事を意味する神事で、即ち木彫りの牛を用いて耕地の整理をなす神事である。この木彫りの牛を神牛と称し古くは生きた牛を使用したと言う事である。現在の神牛は文政七年七月、社掌古川平右エ門、増田庄兵衛の二人が、境内山林に草廬を結び、伝来の木彫りの牛の原型を失わないよう注意して彫刻したと伝える由緒深いものである。
 御田植祭当日行われる御田植踊、即ち棒踊は当日五穀の豊穣を祈願する意味で行われる踊で、三十名内外の青年は手に手に六尺棒と鎌を持ち、覆面して現われ、歌に合わせて勇壮活発なる踊を奉納するのである。
 狭野神楽は三十三番よりなり、相当古い伝統を持つものと思われ、三百年前の記録を有している。舞は頗る勇壮なもので、毎年奉仕の青年は徹宵舞い続けて夜の白々と明け初める頃に終るのである。この神楽に使用する面は能面も多く相当古い時代のものと想定される。以上の特殊神事が行われる際には参拝者は数千の多きに達し、社頭は非常な殷賑を極める。特に、狭野神楽の執行される当日には神輿の渡御があり、氏子崇敬者は多数これに供奉するを例として非常な賑わいを呈する。
 (平成祭データ)
参拝月日  11/26/2008


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一の鳥居 社殿全景