大原野神社(おおはらの) HOME blog

鎮座地 〒610-1153 京都市西京区大原野南春日町1152 旧山城国 乙訓郡   
電話  075-331-0014
旧社格等  官幣中社(現別表神社)
二十二社

式外社
御祭神  ・建御賀豆智命
 ・伊波比主命
 ・天之子八根命
 ・比咩大神
御由緒 御由緒
 大原野神社鎮座の一帯は山城地方でも古くから開けたところで一萬年も以前の有柄尖頭器が山の手から発見されている。人皇五十代桓武天皇が都を奈良から京都向日市を中心とした長岡京(七八四-七九四)に遷された時 鷹狩を愛した天皇はしばしば大原野に足を運んで鷹を放たれた。
 萬葉集の編者大伴家持が
「大原やせがいの水を手にむすび 
   鳥は鳴くとも遊びてゆかん」
と詠んだのも狩に供奉した時のものであろう。またこの風景を賞で藤原氏の人達は氏神春日大社の御分霊を遷し祀ることにした。これが當社の起こりである。御祭神は
 第一殿 建御賀豆智命
 第二殿 伊波比主命(経津主命)
 第三殿 天之子八根命
 第四殿 比咩大神
がお祀りされている。文徳天皇は仁壽元年(八五一)祖父藤原冬嗣が生前果せなかった壮麗な社殿を創建され春秋二季勅使をつかわし勅祭を行なわれた。應仁亂後は社運おとろえ祭儀さえ中絶したが後水尾天皇(一六四八)が再建された今の本殿四棟春日造はこの時のものである。慶應元年十一月加茂、石清水の勅祭に次いで官祭が復興され近くは大正十一年十一月十四日時の皇后(貞明皇后)が當社に行啓遊ばされた。
 御例祭は櫻花満開の四月八日に執行、特殊神事として御弓祭と御田刈祭の二私大祭がある。
                              大原野神社
 (三の鳥居前案内板より)

  大原野神社
 祭神として、奈良の春日大社と同様、建御賀豆智命(たけみかづちのみこと)、伊波比主命(いわいぬしのみこと)、天之子八根命(あめのこやねのみこと)、比賣大神(ひめおおかみ)祀っている。
 長岡京遷都に際し、桓武天皇の皇后である藤原乙牟漏が藤原氏の氏神として長岡京に勧請したのが、当社の起こりと伝えられる。嘉祥三年(八五〇)、藤原冬嗣を祖父とする文徳天皇により壮麗な社殿が造営され、京都の守護神としてこの地に祀られた。 
 平安時代の中期には藤原氏の隆盛とともに、その氏神として大きな地位を占め、天皇や皇后の崇敬も厚く、官祭である大原野祭には勅使が派遣されていた。また、伊勢の斎宮や加茂の斎院にならって当社にも斎女が置かれていた。しかし、応仁の乱以後、社運が次第に衰え、祭儀も途絶えがちになり、社殿は荒廃した。
 現在の春日造総檜皮葺の本殿は慶安年間(一六四八~一六五二)に再建されたものである。
境内には奈良の猿沢の池を模した「鯉沢の池」や古歌に多く詠まれ、大伴家持が愛飲したという「瀬和井の清水」と呼ばれる名水がある。
                           京都市
 (社頭案内板より)

 京都市指定有形文化財
大原野神社 本殿(四棟)・中門・東西廊(二棟)
 大原野神社は、延暦三年(七八四)の長岡京遷都の際、藤原氏の氏神として奈良の春日神社(春日大社)の分霊を勧請したのがはじまりとされる。
 本殿は、同規模・同形式の四棟の一間社春日造社殿であり、各社殿間は板塀で連結されている。身舎の平面は、一七〇センチ四万の正方形である。屋根は檜皮茸で、棟に置千木と三本の堅魚木をのせる。身舎の正面にかかる破風は、春日大社同様、直接庇下に突き抜けて庇の垂木を受ける古い形式である。
 建築年代については、擬宝珠に文政五年(一八二二)の銘があり、向拝角柱の面取が小さいなどの様式からみても、この頃に再建されたか、かなり大規模な改修を受けたと考えられる。
 中門は簡素な形式の薬医門である。中門の両脇に建つ東廓と西廓は、いずれも正面を柱間五間として連子窓をはめ、背面を柱間三間の吹放ちとする。中門・東西廓は、いずれも切妻造、檜皮茸の建物で、本殿と同時期の建築とみられる。
 大原野神社本殿は、奈良の春日大社同様に一間社春日造の社殿が四棟並立する形式である。本殿前の中門・東西廊とともに、春日社系社殿の形態をよく伝えるものとして価値が高い。             
                         平成十五年四月一日 指定
                            京都市
 (境内案内板より)
参拝月日  11/23/2009

写真をクリックしてくださいフォトアルバムに移動します。
参道入口の鳥居 拝殿