御由緒 |
神社の祭神は男女二神である処から縁結び並商売繁盛農の神で古来より尊宗されている。
元亀元年(一五七〇)今山の陣で兵火の為、宝物古文書等焼失し、その創建年月は不明であるが、少なくとも今より六百五十年以前に創建されていたと推定される。
七百年の昔建治年間正空上人が光明寺(現在廃寺)を男女神社の南東に建立しその子院末寺も建ち並び此の一帯は仏教繁栄の霊地であったといわれ今も其の地名が残っている。
この頃は神仏習合(混滉)の時代で光明寺の和尚が代々に亘って男女神社座主として管理し神座を勤めていた。
昔は大社にて東の谷に講堂あり西の谷に楼門ありし由是故に、東の講堂、横馬場と唱へ西を楼門谷と称し今に堅馬場、横馬場等の地名を有し持って当時の盛大なりし事を想い起される。
現在の神社は今山陣の兵火で焼失し後に再建された事は棟銘にもあり承応三年(一六五四)今から三百三十年前に佐賀初代藩主鍋島勝茂候、小城藩祖鍋島元茂候の出資で再建された事が記されてあり、ここに立てば佐賀平野を眼下見渡された。
秩父の宮殿下の御立寄りの碑もあり、遠く有明の海をへだてて、雲仙の山々が望見され社殿の直前には横穴式石室を有し、此の周辺には数百の大小円墳があったが、今はみかん園となり其の面影はない。
現在も大字久留間の氏子によって春秋の例祭が行われている。
ーー中略ーーー
平成元年一月 大和町
(境内案内板より) |