御由緒 |
三坂神社(みさかじんじゃ) 〔通称みさかさま〕
祭神
(主祭神)大国主神(おおくにぬしのかみ)事代主神(ことしろぬしのかみ)
(配祀神)素盞鳴尊(すさのおのみこと)大歳神(おおとしのかみ)埴山姫命(はにやまひめのみこと)
由緒沿革
創建の年月は不明。
奈良時代の天平十年(738)『周防国正税帳』に、「周防国御坂神社に春秋祭祀料又、神社改造の雑用等を充て奉らしめ給う」とある。
平安時代の『続日本後紀』には、「承和六年(839)周防国三坂神社に従五位下を授け奉る」とある。『三代実録』には、「貞観九年(867)従三位を授く」と。『延喜式神名帳』に、「周防国十座、佐波郡六座御坂神社」との記載がある。『長寛勘文』 には、「天慶三年(940)諸神社位記請印の事あり、去る承平五年(935)海賊を平ぐる事を十三社に祈り申す。三坂神に正三位を加う」と書かれている。
当社は再々火災に遭った模様で、天徳年間(957~)、鎌倉時代の建長七年(1255)、室町時代の応永二年(1395)、戦国時代の文明十一年(1479)、大永二年(1522)、安土桃山時代の天正六年(1578)、江戸時代の延宝八年(1680)に、それぞれ「再建のことあり」と伝えられている。
文久元年(1861)に現在の社殿が建てられた。
『周防徳地誌』に「足利尊氏西国に走る途次、三坂神社に参り、能楽を奏して、御神意を慰め奉り、神馬・馬具等を献納せり」とあり、参道の石畳は尊氏が敷いたという。又、「豊臣秀吉公、三坂神社に参り、五色の吹貫等を献納し、当社の釣鐘を借りて用い、石州津和野永明寺に返したるものなり…」という。鐘の銘に、「周防国裟摩郡岸見村三坂神社銅頭鉄額 有口不言 等閑觸着 音震乾坤 覚長衣夢 破夢明昏 普今群類 入国通門(応永二歳)(以下略)」とある。
二ノ鳥居の銘に「延書式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄十一年(1698)戊陽月」とあり、四代藩主吉広の寄進であったことが分る。
宝永年間(1704~)以来、船路八幡宮との間で続いた武内社論争も、明治四年(1871)に決着し、明治六年(1873)に準郷社格となり、同八年(1875)郷社に列せられる。明治三十五年(1902)、本殿を銅板に葺替える。大正四年(1915)、毛利元昭公御参拝。大正八年(1919)県社に列せらる。
昭和五年(1930)、一二〇〇年祭斎行。日中戦争に続く大戦中に、武運長久祈願のための参拝者は数知れず、防石鉄道岸見駅から社頭まで二キロの道を延々たる人波が続いたという。一日最高祈願数は、八八〇名に達した。
昭和二十年(1945)の終戦の年、国教分離により社格を削除。昭和二十一年(1946)に占領軍MPの臨検を受けたが、参拝者名簿は事前に焼却した。祈願写真は、隣家の床下に隠して無事であった。その数一万数千枚である。
神社庁設立以降
昭和三十年(1955)、一二二五年祭を斎行し、しやぎり等で賑わう。
昭和三十三年(1958)に社号碑。同三十五年(1960)に演舞場建設。この時、岸信介首相も参拝された。昭和五十四年(1979)、「神木」と称えられた「オオマツ」が枯れ、伐採売却した。それで拝殿、中殿、 釣殿の屋根を銅板にし、壁も修理した。
昭和五十五年(1980)、一二五〇年祭斎行。剣道大会で賑わい、神徳碑を建立し、碑下に写真名簿を埋納 した。この年二月からNHKが写真返還のことを全国放映。その後、各新聞・雑誌等で紹介、
昭和六十年(1985)には、KRYテレビがドキュメントで放映して知名度が高まった。国の大義に殉ぜんと奉納された写真の返還事業は、平和を希求して今も続いている。
(山口縣神社誌より) |