御由緒 |
黒木神社
御由緒
後醍醐天皇御遷幸の後御聖徳を敬慕し奉る島民は御尊霊を奉斎し爾来祭祀の礼を致しつつあり
明治四十年六月四日大正六年七月七日兩度の行啓にあたり忝くも社前に御手植を賜る
御創建は不詳なれど後南朝の頃奉祭したるべ久享保年間復興の棟札元禄年間の記録阿里
御祭日 例祭 九月二十七日
皇太子殿下
皇太子妃殿下
行啓御参拝
昭和四十二年十月六日
御幣饌料を賜る
(境内由緒掲示板より)
黒木御所
後醍醐天皇は資性英邁、後鳥羽上皇の御意志を継承、鎌倉幕府を討滅して日本の姿を延喜天暦の御代に復そうとの御雄図は空しく挫折し、時の執権職北条高時の為この丘陵(天皇山)に配流されました。
天皇は京人の「正しき一天の主を下として流し奉ることのあさましさよ、武家の命運今に尽きなん。とはばかるところなくいう声巷に満ちて、只赤子の母を慕うが如く泣き悲しむ」中を元弘二年(1332年)三月七日(御歳四五)京を御出発、翌月二十一日この山上に隠岐判官佐々木清高のしつらえたる黒木御所に着御になりました。
天皇御在島約一年、楠正成等勤王の士続々外に起こり、幕府の形勢日々に非となったので、元弘三年閏二月二十四日未明、海士村の村上を首め当地豪族の協力により黒木御所を御脱出、此処より西方三粁ばかりの美田字宮崎の浦(現在の小向)より御乗船、伯耆の国名和湊に御着陸し、名和長年に奉ぜられ船上山に御幸、翌年(1334年)建武中興の鴻業を御達成になりました。
即ち、当黒木御所は建武中興発祥の聖地であります。
黒木御所
(入口案内板より)
黒木御所
後醍醐天呈行在所遺蹟
〔太平記〕曰く「御船隠岐ノ国二着キニケリ、佐々木判官貞清府ノ島卜云フ所二黒木ノ御所ヲ作リテ皇居トス、玉扆二咫尺ンテ召仕ハシケル人トテハ六條少将忠顕、頭大夫行房、女房二ハ三位殿御局計也、昔ノ玉樓金殿二引替テ憂節茂キ竹椽涙隙ナキ桧ノ墻、一夜ヲ隔ツル程モ堪へ忍ブペキ御心地ナラズ。鶏人暁ヲ唱フル声、警固ノ武士ノ番ヲ催ス声バカリ御枕ノ上二近ケレバ夜ノ寝殿二入ラセ給ヒテモ露マドロマセ給ハズ」云云。御日夕ヲ偲ビ只管恐懼シ奉ル耳。
(現地案内板)
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