菊池神社(きくち)              HOME blog

鎮座地 〒814-0133 福岡県福岡市城南区七隈7丁目10-1 旧筑前国 早良郡  
電話  092-871-7075
旧社格等  県社  
御祭神  ・菊池武時
 ・仁徳天皇
 ・埴安大神
御由緒  懸社菊池神社
祭神、菊池武時、埴安命、鷦鷯命。
由緒
 祭神肥後守菊池次郎武時公は元弘三年三月十三日筑前國博多にて北条英時と戦闘の際、少貳、大友の反覆に依て敗軍遂に戦歿せられたり。當社は其の其の墳墓と云い傳ふる奉祀せるものなり。
大正十一年三月十六日許可を得て同大字字天神前に奉祀ありし十六天神を本社に合祀す。
大正十五年三月十六日村社に列される。昭和八年四月四日懸社に昇格。
 尚社説に曰く、當社は南朝の大忠臣菊池武時公の墳墓の地にして、公は元弘三年癸酉、後醍醐天皇の綸旨を奉じ九州探題北条英時を討たんと欲し、一族郎黨百數十騎を率ゐて錦旗を春風に翻し肥後國菊池の居城を出発し勇ましく征途に上り、三月十三日未明博多の探題館を攻撃せり。是れより先共に綸旨を戴き協力作戦を盟約せる大友貞宗少貳貞經は俄に変心し、武時の使者を討ちて其の首を英時の館に送りたり、武時之を聞き「日本一の不当者を頼みたるは我が落度なりしなり、彼等が興せざる共戦の出来ざる事あるべきぞ。」と大いに奮戦して英時の軍を散々に打破り、最早是迄なりと覚悟し将に自刀せんとす、この時少貳大友は数千騎を以て英時の軍を援け菊池軍を挟撃せり、武時公天を仰ぎて長嘆し「萬事休矣」と叫び嫡子武重を招きて言へらく「汝は肥後の菊池に帰り城を堅くして再び義兵を挙げよ尚之を持ちかえれ」とて、故郷に今宵がぎりの命とも知らでや人の我を待つらん、と云う一首の和歌を衣の袖に記して与えたり、武重は「一処にこそ死なん」と再三申せしも武時公は「汝を天下の為に留むるぞ」と強いて之を還し、自身は潔く戦死せられたり。時に年四十五歳なり。大日本史菊池武時列伝に曰く、帝の京都に帰りて諸臣の功を録し給ふや新田、名和、楠等皆其席に陪せり。
 楠正成進み奏して曰く「元弘の勲功實に優劣を判じ難し、叱れ共臣等が如きも僥倖にして恩を受けたり武時が勅に応じ命を致せるが如きは宣敷功臣第一と為すべし」帝之を頷き給ふ。
即ち菊池公親子博多の袂別並に戦死は是より三年後の楠公父子櫻井驛の袂別及湊川の順節と並び称せらる。
 宣なる哉畏も明治天皇は明治十六年八月武時公を従三位に叙せられ、更に明治三十五年十一月従一位に追陞あらせ給い、肥後國隈府の菊池の舊居城にある菊地神社は別格官弊社に列せられたり。公の遺骸を葬る本墳墓は久しく荊蕀の中に埋居しが文政十年、黒田家家臣二川相近は遠く吉野山の櫻を携え来たりて其の側に栽へ英霊を慰めたり。又菊池氏の支裔城武貞の主唱により藩主の充許を受け勤王の志士と相謀り草莢を拓き土地を均し高四尺幅二尺の墓碑を建つ。菊池寂阿公之墓天保二年辛卯二月建之とあり碑文は藩内文武の巨擘吉留渉(杏村と号又は源巨川と号す)の筆になれり、次いで天保三年三月十三日公の戦歿後五百年に当たれるを以て城武貞祭主となり五百年祭を挙行するや藩主黒田齋清之を賛して金帛を賜ひ家老職以下の藩士及藩学の教授竹田梧亭老儒月形鷦窩、龜井昭陽、井上周盤、青柳種信、阿部蘭畝等祭粢を贈り或は詩歌文章を奉納し忠君の熱誠を偲び愛国の至情を発揮せり其の数三巻二冊に及ぶ。又勤王の志士平野次郎國臣の如き深く公の遺蹟を探り、特に安政五年本墓畔に和魂漢才の碑を建るの意を以て京師に出で縉神家に属して撰文を得んと盡力にしも國事多端の折柄遂に成就する事能はざりき。
 明治二年四月藩主黒田長知公は奉行桑野浄風、中上重遠、久芳信順三氏に命じ神殿拝殿を建立し墓域に石垣並びに石玉垣を築造し鳥居を奉献菊池靈社と号し、藩主親ら重臣を率いて参拝し。又衆庶をも多数参拝せしめたり。是實に本社の正式創立にして肥後隈府菊地神社の鎮座に先んずること約半歳なり。明治十五年寂阿の遠孫菊池武夫城武こう等五百五十年祭を執行し参事院議官福羽美静を始め、舊福岡藩士龜井玄谷其他宿需名家等参集し詩歌文章を奉納せり。殊に明治十七年十一月畏くも小松宮彰仁親王殿下は社頭に掲げる社号額「菊池靈神」の四字を御染筆の上之を下賜せられ公の忠霊を嘉せられたり。
 爾来七隈里民により年々三月十三日には祭典は挙行せられしが春風秋雨と共に玉垣は倒れ鳥居は朽ちて全く荒廃に委せしかば明治二十五年早良郡小学校教員協議を遂げ各自年々寄付金を醵出し又児童よりは賽銭を集め其の資以て玉垣鳥居を復舊し山林を買収して境内を拡張し志士顕彰の實を挙げたり。
 明治三十五年十一月明治天皇熊本行幸の砌長くも武時公の忠烈を偲ばせ給い特に従一位を追贈し給ふや早良全郡官民を挙って本社に奉告祭を厳修せり。大正八年早良郡史談会の主唱に基ずき七隈氏神埴安神社を移転本社に合祀し村社菊地神社となり埴安命大鷦鷯命二柱を配祀するに至れり、然して挙郡一致の醵金と篤志者の浄財及び全郡青年、処女、郷軍会員の労力奉仕により境内の拡張社殿の改新築を了へたり。殊に昭和八年四月十三日武時公六百年祭に当たりては御昇格奉賛会協力の許に同年四月四日付懸社に昇格せられ、極めて盛大なる大祭を執行したり。
例祭日
 四月十三日
神饌幣帛料供進指定昭和八年四月七日
主なる建造物
 神殿、渡殿、拝殿、神饌所、神庫、社務所。
 (平成祭データ)

菊池神社
 元弘3年(1333)後醍醐天皇に味方して、鎮西探題北条英時を博多に攻めたが、味方だった少弐・大友の離反で壮烈な死を遂げた肥後の菊池武時公を祭っている。
 明治2年最後の筑前藩主となった黒田長知は社殿を営み、その忠勤をたたえた。
明治15年表忠碑が建てられ、更に大正11年に十六天神社の仁徳天皇、埴安大神を合わせ祭っている。
 (社頭案内板より)
参拝月日  03/08/2008

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境内入り口の鳥居 拝殿