御由緒 |
木戸神社
当神社は木戸孝允(桂小五郎)を祭った社です。
孝允は萩に生まれ、幕末には京都や江戸で国事に活躍したのですが、常に藩論を指導し討幕の策を練り、薩長連合を図って明治新政府樹立の大きな力となりました。
のちに内閣顧問を初め多くの要職について内外の政務に参与しましたが、明治十年に京都のおいて病没(享年四十五歳)しました。
孝允は死を前にこの地にあった本宅山林などを地区民に与えて子弟育英の資とするよう言い残しました。
人々は大変感謝し、社を建てて孝允の霊を祭りました。
(社頭案内板より)
木戸神社(きどじんじゃ) 〔通称 きどさま〕
鎮座地 〒753-0091 山口市大字上宇野令一一五番地
祭神 (主祭神)贈従一位勲一等木戸孝允公(きどたかよしこう)
由緒沿革
明治の元勲木戸孝允公を祀る。同公は、幕末の内憂外患天下の大変動の時に活躍し、尊王の大義を唱え、国事に奔走し、「王政復古」即ち、明治維新の大業を完成させた。
維新後は、長州藩の代表として、東京遷都・版籍奉還・廃藩置県等、国家の重大事に参画して貢献する。さらに、特命全権副使として欧米先進諸国を歴訪して、世界の大勢を知悉し、内治・外交に力を発揮した。
また、文部卿・地方官会議議長・内閣顧問の要職を歴任し、終始明治政府の高官としての大任を果した。
公の忠誠なる功績は偉大であり、明治天皇の寵遇は厚かった。明治十年(1877)、薨去されるや、天皇は特に勅使を遣わして弔問し、公の偉勲を褒して正二位の位階と金幣を賜った。更に明治三十四年(1901)、従一位を追贈され、同三十九年(1906)には、京都霊山の墓地に公の勅撰銅碑を建て、その勲功を永く後世に
伝えられた。
山口市糸米の地は、公がかつて在住された処で、臨終に際し「もと住んでいた糸米の住宅・山林を村民に与え、子弟の学資にあてるように」と遺言された(当今の奨学資金制度の元祖であり、勧学祭として今に伝う)。地区民は公の恩徳を深く感謝し、公の死去せられるや、その偉徳を偲ぶの情は愈々深く強くなった。
そのため明治十一年(1878)、この地に一宇を建立し、公の霊を奉斎して木戸神社と称した。この後、年々祭祀を怠ることはなかったが、神社明細帳への登載脱漏のため、無格の木戸公を祀る一神社に過ぎなかった。
地区の有志はこのことを嘆き、山口市民の崇敬者と相はかり、昭和十五年(1940)、神社創立の許可を受け、境内地を買収して整地し、建築用材の購入等を完了した。しかし時恰も戦争遂行の途上であって、四囲の情勢は神社の建立を許されなかったため、遂に建立を延期することとなった。
戦後、御祭神の偉徳を敬慕欽仰する者が集まり、改めて昭和二十二年(1946)、神社本庁の承認を得て、木戸神社の創立を見るに至った。
神社庁設立以降
戦後の諸情勢と経済事情の変化によって、当初の予定計画のような神社建立は、到底不可能となった。そのため、木取り製材してあった用材は、戦災で焼失した赤間神宮再建の用材として譲渡した。本殿は旧来の建物を移築、拝殿も市内江良にあった江良神社のものを移築し、鳥居・灯寵は県庁内露山にあったものを買い取って移設した。資金の大部分は、第二封鎖預金(預金凍結))で封鎖されたため、出資の節約に最善を払い、可能な範囲で不充分ながらも一応神社の体裁を整えた。昭和五十二年(1977)、御祭神没後一〇〇年祭にあたり、社殿屋根の茸替え・駐車場新設などの記念事業を行った。
(山口縣神社誌より) |