御由緒 |
縁起によると天武天皇御宇(六七二−八六)白鳳八年、豊後国姫島より安芸国安芸郡栃原村甲手山に天降り、さらに大宝三年(七〇三)同郡宮原村亀山(入船山)に鎮座したと伝えられる。
古くは皇城宮、大屋津比売神社、大帯比売神社、比売志麻神社、鈴音宮、あるいは八幡宮と称し、楽音寺蔵「安芸国神名帳」に〓神明神とあるのは当社のことと考えられる。
平清盛が音戸瀬戸を開く際には当社に祈願し、厳島神社の造営時に当社にも神殿等を寄進したと言われ、社記によると境内には清盛塚も存したという。
その後、文治五年(一一八九)、正和元年(一三一二)、天文三年(一五三四)などに社殿の造営があった。
明治十九年になって鎮座地が海軍の呉鎮守府の用地とされ、二十年五月に現在地へ遷座した。
昭和三年に火災、同二十年に戦災に遭い、現在の社殿は三十年に再建した。
旧社格は県社であり、国家安泰、航海交通安全、学問、安産の神として崇敬を集めている。
以上
(平成祭データ) |