御由緒 |
回天神社由来
御祭神 天照大神 應神天皇 楠正成
祭祀者 大神突撃隊司令 海軍大佐 山田盛重
御分神 昭和二十年四月二十日
大神突撃隊廰舎内に鎮座 同 年四月二十三日
同隊開隊式(於神前) 同 年四月二十五日
同隊南西高地ニ御遷宮 同 年八月二十五日
同隊解隊ニ付一時住吉神社境内ニ
御奉遷 同 年 月 日
舊隊内ニ御奉遷
御例祭 毎年四月二十五日
大東亜戦争の末期 堅く神州の不滅と皇國乃必勝とを信し一死國難に殉ぜんとする弱冠二十の若櫻相競ひて大神突撃隊に入り水明の海辺に菊水の大旆打ち樹てて特攻兵器回天の訓練に烈々精魂を傾倒せり
回天隊歌
一、悠久不滅神州の國難誰か救ふべき
若き盡忠丈夫の血潮逆巻く回天隊
二、其の名も清き大神に楠公精神體得の
戦友は微笑み今ぞ征く無敵の誇り回天隊
三、七度人と生れ出て巨艦轟沈必殺乃
弱冠二十の若櫻従容散り行く回天隊
四、水漬く屍の礎も天皇の弥栄を
訪ふ春を信ずこそああ義烈なり回天隊
(拝殿掲示板より)
回天神社
大平洋戦争末期の昭和19(1944)年に入ると戦局を逆転するために、魚雷を人間が一人搭乗できるように改造し、母艦の潜水艦から発進して敵艦に体当たりする戦法が考え出された。
昭和19年9月1日、山口県徳山市大津島で回天の訓練基地が開隊、続いて光基地(山口県光市)、平生基地(山口県平生町)が順次開隊し、ここ大神では昭和20(1945)年4月25日に大神突撃隊として、司令・山田大佐以下2,000名で発足した。
昭和20年8月2日、膵員8名が回天8基と共に愛媛県宿毛湾麦ヶ浦へ出撃のため進出した。
昭和20年8月15日の終戦とともに解隊したため、大神突撃隊からは突撃による戦死者は出ていない。しかし、終戦10日後の25日、松尾秀輔少尉が基地内で白決したほか、空襲による犠牲者が出ている。
終戦に伴い神体を奉納していた回天神社は山田司令の依頼により住吉神社境内に遷座し、地区民がお祭りするようになった。
慰霊祭は3年に一度、関係者が全国より集まって行われ、その他の2年間は地区氏子の手で慰霊されている。
人間魚雷「回天」大神基地跡
「回天」の特攻作戦はイ号潜水艦に搭載されたものと基地に進出してそこから発射されたものとの二種類があった。大神基地はその訓練基地である。
昭和16(1941)年大神村真那井、秋貞、軒の丼、牧の内など海岸部の広大な土地が海軍工廠建設を目的に強制買上げされた。
しかし、大神村の海軍工廠建設は中止となり、用地は特攻基地用地に転用された。
昭利19年暮、大神村牧の内で人間魚雷「回天J基地の建設が始まった。
配置図は当時の資料と基地関係者の記憶を基に、各施設を現在の概略図に示したもの。
現在残っているのは調整堤などと、当時掘られた地下壕だけである。
大分県日出町観光協会 2002年3月作成
(参道入口案内板より)
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