鎮座地 |
〒817-1303 長崎県対馬市峰町木坂247 旧対馬国 上県郡 |
電話 |
0920-83-0137 |
旧社格等 |
国幣中社(現別表神社)
対馬國一の宮
式内社 對馬嶋上縣郡 和多都美神社 名神大
式内社 對馬嶋上縣郡 和多都美御子神社 名神大
式内社 對馬嶋上縣郡 胡簶神社
式内社 對馬嶋上縣郡 胡簶御子神社 |
御祭神 |
・豐玉姫命
(配祀)
・彦火火出見命
・宗像神
・道主貴神
・鵜鵜草葺不合命 |
御由緒 |
海神神社略記
主神豊玉姫命は、神武天皇の祖母神で、鵜茅葺不合命の母神、彦火火出見命の后神に坐して、父君は海神豊玉彦命であり、魚族、海草の藩植海潮の満干船舶の往来等大海に関する一切を主宰し給う神であると共に安産の神でもあらせ給う。御本殿に御鎮座の5柱の神々は、皆神代に於ける皇室の御祖先の神々であらせられます。
当地御鎮祭の年代は、古代の事とて詳ではないが、旧記に依れば初め上県郡佐護に出現し給い。更に勅命を以て伊奈郷伊奈崎の宮に移し奉れ、どこの宮も清水無きため現在の木坂伊豆山に遷座し給うと伝う。
神功皇后の三韓征伐の時は、己に此の伊豆山に鎮座し給へりと伝う。当社は延喜式に「対馬の国の一宮」に坐します。
尚、当社は西北に満韓を控え、内外咽喉の地に在り、皇国鎮護の海神として歴代天皇の崇敬厚く、国家の大事ある毎に勅使参考祭祀奉幣あり。尚又藩政時代に於いても、藩主の崇敬篤く、島内各村に神事所役を命ぜられた程なり。神功皇后三韓征伐の際は海上にて数々大神を奉祭され、其の御加護により、刃に血ぬらずして三韓を降し得たりと御凱旋の折は特に当地御前の浜で懇に報賽の祭事を行はせられ、8旒の御旗を遣し給い、朕の魂も御旗と共に永く留め置き、海神とともに永く皇国鎮護に当らんと告げ給へりとぞ。爾来当社を和多津美神と奉称すると共に木坂八幡宮とも奉称するに至れり。
この8旒の旗風は、彼の三韓を吹き靡かせしものなれば、此御旗の当社に納まれる事を伝へ聞きたる三韓国王等は数々当社に幣物珍寳を奉献して威霊を敬拝せり。斯る神代よりの尊厳無比の古社なれば、其の御造営の如きも昔時は勅命により太宰府所収上県郡6カ年間の貢租を以てこれに充て、藩政に至っては藩費を以て30年乃至40年目毎には必ず造営せらるるを例とされたり。
大政奉還後、明治3年「和多都美神社」と定号され、又明治4年5月国幣中社に列せられ、神社の経費はすべて国費をもって支弁されることになり、同年6月太政官より「海神神社」と定称せらる。昭和20年大東亜戦終戦と共に、国幣は中止され今日に及べり。
御本社の境致
神社は対馬の首都厳原を距る約40キロ、上県郡峰村木坂、伊豆山の中腹約280段の石段を上りたる所に在り。対馬の中部西海岸に面す樫、椎、槻の大木鬱蒼として、千古の林層をなし、山上常に雲気を帯ぶと、社頭を僅に下れば眼界俄に開け、対馬西海の風光一眸の下に集まる。飛崎の鼻は眼下西北方に突き出し、怒涛澎湃として飛沫の花を散らし、渺茫たる朝鮮海峡を隔てて煙波模糊の間に古三韓の山々を望むことを得而して夕照と相映発するに至っては蓋し地上の絶勝と云うべし。
(平成祭データ)
海神神社
Kaijin Shrine
峰町木坂伊豆山鎮座
祭神 主神 豊玉媛命(とよたまひめのみこと)
合殿 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと) 外二神
この外に摂社・末社十七座
由緒
本社は、延喜式神名帳所載、対馬上県郡の名神大社和多都美神社に比定され、神功皇后の旗八流を納めた所として八幡本宮と号し、対馬国一ノ宮と称されたもので、明治四年に海神神社と改称、国幣中社に列せられた。
本社の造営は、古く大宰府所収上県郡の貢祖(ねんぐ)数ヶ年分を以て充てられ、藩政時代には藩費によって、およそ四十年ごとに造営されたものである。
祭礼
毎月一日、月次祭。二月十七日(古例は旧正月十五日)、祈年祭。
旧八月四日、前夜祭。五日、古式大祭。霜月初卯、一宮祭。
古式祭には神幸式、放生会、神楽があり、古くは鉾舞や舞楽があったが今は絶えた。
宝物
八幡神像二体(木造)。阿弥陀如来像一体(銅像・新羅仏)。
神代矛六本(青銅広矛・弥生時代)、鏡二十八面(高麗鏡・胡州鏡・和鏡)。
仮面八面(木造・鎌倉~南北朝)。
これには国・県指定の文化財が多く、外に鈴、銀鋺、銀匙、甲冑、棟札などがある。
神山と社叢
神霊の鎮まる所を伊豆山という。イヅ(稜威いづ・厳いづ)とは神霊を斎き祀ることの意で、千古斧を入れない社叢は天然記念物の原生林、いま「野鳥の森」として指定されている。
(境内由緒掲示板より)
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参拝月日 |
09/05/2008 |