御由緒 |
備前国一宮 式内社 石上布都魂神社御由緒
当社は延喜式神名帳に記載された「式内社」で、全国3132座のうちの一つである。延喜式とは延喜5年(905) に醍醐天皇の命により編纂されたもので、備前国では128社の中正二位に列せられた古社である。また備前一宮として国司が参拝を指定されていた。
祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)。
日本書紀に素盞鳴命が出雲国で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治され、大蛇の尾から草薙の剣を取り出すが、その後日談として「一書にいわく」として「その素盞鳴命の蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部(かんとものを)の許に在り」と記している。吉備の神部とは当社のことである。
大和(天理市)にある石上神宮は物部氏の氏神で、 布都魂剣を御神体とし、有名な七支刀を所持していることなどから、 日本書紀による素盞鳴命の剣も、大和説が有力とされているが、岡山藩士の大沢惟貞が寛政年間に編纂した「吉備温古秘録」には記紀をはじめ古代の文献を考証、素盞鳴命が剣を納めた社は吉備の当社に間違いない、崇神天皇の御代に大和に移したとしている。
四世紀から五世紀にかけて吉備は出雲も支配する勢いだった。剣を鉄の象徴とみるならば吉備は鉄の大生産地である。
もともと当社の御神体は大松山の頂上の巨石で、神が天下る磐座(いわくら)である。布都魂とは剣の霊のことである。なお当社の宮司も物部姓である。
綱政公復興の折紙
寛文9年(1669)、時の藩主池田綱政公は由緒ある古社の復興を指示、山頂にあった小祠を造営・復興した。延宝2年(1674)には「神道衰え古事を知る人の少なき」 を嘆き、広沢元胤に命じて社記をつくらせ、社領二十石を奉納した。宝永7年(1710)には社殿改築の折紙を奉納した。 その後の歴代の藩主も崇敬の念厚く、藩主交代時にはかならず折紙が奉納された。綱政公をはじめ、歴代藩主の折紙はすべて当社に保存されている。
本宮と磐座
当社の御神体は元来は大松山山頂の巨石で、神霊が宿る磐座である。山の中腹に、大燈篭と唐獅子と休憩所があり、拝殿・本殿が建っている。本宮はそこからさらに急な山道を約0.5キロ登る。やがて磐座前にいたる階段が付けられており、本宮の社がある。その後に屹立する巨石が磐座であり、付近は禁足地となっている。
昭和43年(1968) に復興三百年の磐座祭を行い、社殿の改修などを行った。 汗を流し、本宮に参拝すると霊気に触れ、 古代信仰の心が伝わってくる。
神剣
当社に奉納された素盞鳴命の剣は大和の石上神宮に移されたが、 このことは石上神宮の御由緒記にも「もと備前国赤坂宮にありしが・・・」 と記されている。
明治7年(1874)石上神宮では古記録に基づき、神剣発掘を行ったところ、真っ赤に錆びた剣が出土した。これこそ素盞鳴命の大蛇退治の韓勤(からさび)の剣であるとし、大正年間に記録によって刀工月山貞一が三振り復製、その一振りがゆかりのある吉備の当社に奉納された。
(神社パンフレットより抜粋) |