防府天満宮

鎮座地 〒747-0029 山口県防府市松崎町14−1  
電話  0835−23−7700
旧社格等  県社  
御祭神 ・菅原道真(すがわらみちざね)公(菅公)
・天穂日命(あめのほひのみこと)
・武夷鳥命(たけひなどりのみこと)
・野見宿禰(のみのすくね)の四柱
御由緒  御祭神及び由緒
当社は菅原道真公を始め公の御祖先である天穂日命・武夷鳥命・野見宿禰の四柱が奉祀してあります。
道真公は御父は是善公と申され御母は大伴氏で仁明天皇の承和十二年(八四五)乙丑六月二十五日京都の菅原院で御誕生。幼名を「阿呼」または「吉祥丸」と申され、後の人はその徳を敬慕して「菅公」と称え、古くから文教の祖神として広く敬仰されて参りました。菅公は幼少より文学に秀でられ、御年僅か五才の時庭前の梅花を見て「美しや紅の色なる梅の花あこが顔にもつけたくぞある」と詠まれました。
 また十一才の時最初の詩「月夜見梅花」を作られ、十八才で文章生となり、二十三才で文章得業生に選ばれ、さらに二十六才で対策に及第せられ、三十三才で文章博士等、学識愈愈高まり誠直な政見によって、時の帝の親任篤く次第に高位高官に昇り、遂に五十五才の時右大臣兼右近衛大将に任じられ当代随一の学徳をもって政務を担当されましたが、延喜元年正月二十五日(菅公五十七才の時)藤原氏の讒言により俄かに太宰権帥に左遷せられ九州へ下向されることになり、同年二月紅梅殿の邸を発たれる時、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」と庭前の梅花に別れを告げられたことは余りにも有名であります。
 西下の途中、時の周防の国司土師信貞は公と同族であったので船を当地勝間の浦におつけになり、暫く国司の館に御滞在になりました。公は酒垂山にお登りになり、山秀水麗の勝景を深く愛でられ、『身は筑紫にて果つるとも、魂魄は必ず此の地に帰り来らん』とお誓いになり、家宝の金の鮎を十二尾国司に託して淋しく旅立たれました。
 延喜三年(九〇三)二月二十五日、勝間の浦に神光が現れ、酒垂山に瑞雲が棚引き人々を驚かせました。
国司は公の異変を感じ、直ちに使を九州に遣わして公の安否を伺わしめたところ、丁度その日が公の薨去の日とわかりました。
 そこで国司は早速館に御霊をお祀りし、翌延喜四年八月今の松崎の地に宝殿を建立して松崎の社と号しました。菅公をお祀りしたお社は日本全国津々浦々に至るまで約一万二千社もありますが、当社の創建をもって日本最古(扶桑菅廟最初)とし、北野天満宮(京都市)太宰府天満宮(太宰府市)と共に日本三天神と称せられております。

 社号
「天満宮」「松崎天満宮」と称していたが、明治六年臣下を祀る神社の宮号禁止によって地名にちなんで松崎神社とした。昭和二十八年全国神社に魁けて宮号を復活することを許され再び防府天満宮と改称した。
 
 社殿
延喜四年八月周防国司土師信貞が初めて祠を建立し松崎の社と号した。建久六年俊乗坊重源が国司となり東大寺落成の御礼として朱塗の本殿・回廊・楼門を建立し、その後、鎌倉末期の元徳二年火災に罹り、天平十九年大内弘世が再建に着手、翌二十年に本殿、天授元年に拝殿を造営。同四年に大内義弘が楼門・廻廊を建立し、応永八年大内盛見が三重の塔婆及び鼓楼を寄進した。
 大永六年再度の火災にあったので享禄三年大内義隆が再建した。
その後毛利隆元さらに修築を施し、天明九年毛利重就またこれを造替したが、過る昭和二十七年三度目の火災に罹り、そのすべてを失ったが全国の敬神の人士の献資により一億余の巨費を以って造営せられた。
 延喜四年(904年)
 (平成祭りデータ より抜粋)
参拝月日  08/21/2004

参道入り口の石鳥居
総高6.19m、柱間4.33m

寛永6年(1629)作

参道の銅鳥居

石段

注連縄(しめなわ)柱

楼門

楼門から拝殿

拝殿

拝殿内部

本殿

春風楼

春風楼内部
防府市街地を望む

春風楼床下の木組み
文政年間着工当時の
物を使用

絵馬

境内社

楼門から参道