箱根神社(はこね) HOME blog

鎮座地 〒250-0522 神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1 旧相模国 足柄下郡   
電話  0460-83-7123
旧社格等  国幣小社(現別表神社)
御祭神  ・箱根大神
  ・瓊瓊杵尊
  ・彦火火出見尊
  ・木花咲耶姫命
御由緒              瓊瓊杵尊(ににぎのみこと) 
御祭神 箱根大神 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
             木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)
由緒
 箱根神社は、古来関東総鎮守箱根大権現と尊崇さた名社で「交通安全・心願成就・開運厄除」に御神
徳の高い運開きの神様として信仰されています。
 当神社は、人皇第五代孝昭天皇の御代(二四〇〇有余年前)聖占仙人が箱根山の駒ケ岳より、主峰の
神山を神体山としてお祀りされて以来、関東における山岳信仰の一大霊場でありました。
 奈良朝の初期(約一二〇〇年前)萬巻上人は、ご神託により現在の地に里宮を建て、箱根三所権現と
称之奉り、佛教、とりわけ修験道と習合しました。平安朝初期、箱根道が開通しますと、往来の旅人は
当社に道中安全を祈願しました。
 鎌倉期、源頼朝は深く当社を信仰し、ニ所詣(当社と伊豆山権現参詣)の風儀を生み、執権北条氏や
戦国武将の徳川家康等、武家による崇敬の篤いお社として栄えてきました。
 近世、官道としての箱根道が整備され、箱根宿や関所が設けられますと、東西交通の要(道中安全の
神)として当神社の崇敬は益々盛んになり、庶民信仰の聖地と変貌しました。
 こうして天下の険箱根山を駕籠で往来する時代から、やがて車社会に変る近代日本へと移行しますが
、その明治の初年には、神仏分離により関東総鎮守箱根権現は、箱根神社と改称されました。爾来、明
治六年明治天皇・皇后両陛下の御参拝をはじめ大正・昭和・平成の現代に至るまで、各皇族方の御参拝
は相次いで行われました。
 昭和五十五年、昭和天皇・皇太后両陛下の御親拝に続いて、翌五十六年、皇太子浩宮殿下も御参拝に
なりました。現在、箱根に訪れる年間二千万人を越える内外の観光客を迎えて、ご社頭は増々殷賑を加
えているのも、箱根大神の御神威によるものであります。
 (社頭由緒掲示板より))

 九頭龍神社の由来
一、御祭神 九頭龍大神
一、例大祭 4月二十九日
一、湖水祭 七月三十一日
一、由緒  湖水祭の由来
 当神社は、湖水祭に因んで建立された新宮であります。本宮は芦ノ湖の湖心近く御鎮座されてゐる『
九頭龍神社』であります。この地に御分霊を奉遷し、鎮祭されました由縁は、古くから湖水祭・庭上の
儀が執り行われてきた祭場でありますから、これを継承発展させるとともに、お詣りしやすいやうにと
願ひ、平成庚辰の年を卜して建立されたものであります。
 この湖水祭は、奈良時代の天平宝字元年(七五七年)、萬巻上人が湖に棲む『九頭の毒龍』を調伏し
、湖の主・龍神として鎮斎されたのに始まります。爾来、連綿として龍神湖水の祭が継承され、執行さ
れてゐますが、これは、箱根神社創建の由来を物語る大切な祭典(八月一日の例祭)の宵宮祭として行
はれてをります。
 この祭典はまづ神前に御供と神酒を献じて祝詞を奏し、神楽を舞ひ、祈願をこめたのち、御供を唐櫃
に納めて捧持し、行列を整えて湖畔へと向ひます。岸辺で小舟にのりかへ、御供船、楽船、お伴船の順
で進発しますが、しかし湖上の大鳥居前から先は、宮司が唯一人ゆく御供船のみが湖心に漕ぎ出してゆ
き、神秘の神事(御供の献納)を行ふ一社伝来の特殊神事であります。
 (社前案内板より抜粋)

  曽我神社の由来
一、御祭神  曽我十郎祐成之命
         曽我五朗時致之命   
一、例祭日  五月二十八日
一、由緒
 曽我神社は元来箱根権現の稚児であった曽我五郎の霊を慰めるため「勝名荒神」として祭祀されたの
が、その後箱根権現に心眼成就を祈念して見事仇討本懐を遂げた曽我兄弟の孝心を称えて、江戸初期の
正保四年(一六四七)小田原城主稲葉美濃守正則が当地に石造の社殿を造営し、本社を建立した。
 爾来祥月命日の五月二十八日に故実による傘焼の儀などの神事が行われ、今日に至るまで心眼成就の
守護神として崇敬されている。

 曽我兄弟は、幼名を兄十郎は一萬、弟五郎は筥王と称した。
安元二年(一一七六)一萬が五歳、筥王が三歳の時、実父河津三郎祐泰が工藤祐経に討たれるという不幸に遭遇した。
 母満江御前は兄弟の身に危険の及ぶことを恐れ、曽我太郎祐信(相模国曽我城主)と再婚し、兄弟も曽我姓を名乗るという数奇な運命をたどった。兄一萬は成人元服し名を十郎祐成と改めて曽我家を継ぎ。弟筥王は実父の菩堤を弔うべく箱根権現別当行実僧正の下に預けられ稚児となったが、孝心やみがたく杉の木を相手に秘かに武術にはげんだ。文治二年(一一八六)正月、十三歳に成長した筥王は源頼朝の箱根権現参拝(二所詣)和田義盛等と共に幕僚として参列した仇工藤祐経を眼のあたりに見て復讐の念に燃え隙を窺うも遂に果たせず、却って祐経から赤木柄の短刀を与えられに諭される始末であった。
 建久元年(一一九〇)十七歳になった筥王は、出家を嫌い無断で箱根山をおり、元服して五郎時致と名乗り、兄十郎祐成と共に仇討を決意した。
 建久四年五月初旬心願成就祈願のため箱根権現に参拝した兄弟はその折、別当行実僧正より神刀微塵丸、薄緑丸を授けられ袂別した。
 折から富士の裾野で大巻狩中の頼朝に従った工藤祐経を襲い、五月二十八日奇しくも与えられた赤木柄の短刀でとどめを刺し本懐をとげた。がしかし兄弟は壮烈な最後をとげた。
 本社が建立された江戸時代は武士道が奨励され、赤穂義士の主君仇討と共に兄弟の孝心、忠節は武士の鑑と仰がれて神社に祀られると共に、多くの文芸や物語に語り継がれ、今日尚その誠烈な気風をしたう多くの人々に尊崇されている。
  (社前案内板より抜粋)  
参拝月日  05/23/2009

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境内入口の鳥居 拝殿