御由緒 |
三日月の瀧
平安時代、京の都で醍醐(だいご)天皇の御孫姫 小松女院(こまつにょいん)と、笛の名手 清原正高少納
言は恋をしますが身分の違いもあり、正高卿は豊後の国に配せられます。
小松女院は、正高卿の後を慕って穴井四郎弘次・荘隈次郎利勢と十一人の侍女を伴いはるばると当地まで
やってきました。
滝のほとりで一人の老樵に出会い、正高卿はすでに矢野氏の娘を娶り長野の館に住んでいると聞き、 今は
尋ねても詮なきことと、旅に使った笠や衣を松の木の枝に掛け辞世の歌
「笛竹のひとよの節と知るならば
吹くとも風になびかざらまし」
と詠み、十一人の侍女と手を組携えて瀧の水底に身を投じました。
正高卿はこの話を聞いて驚き里人と淵瀬を探し、小松女院と侍女の御遺骸を引き揚げ御墓所をつくり、神社
を建て御魂を鎮められました。
玖珠川を挟む、嵐山・桜ヶ丘両瀧神社では現在も入水の日を祭日として厳粛に大祭が斎行されています。
(参道案内板より)
木樵堂の由来
平安時代、天延三年九月、小松女院と十一人の侍女は、清原正高公を京都より慕い、三日月の瀧のほとり
まではるばるやってきました。この地で一人の老樵に会い正高公の消息を尋ねると、すでに正高公は、矢野
倹行兼久の娘を娶って長野の船岡山の館に住んでいると言うことをききます。詮なき事と、小松女院と十一
人の侍女は三日月の瀧に身を投じます。老樵も後でこの事を知り身につまされこの瀧に入水します。
清原正高公は女院と十一人の侍女を祀る瀧神社の守護神として、社を建てこの老樵を守りました。
それ以来、山林、木材関係者の信仰厚いところとなりました。
老樵の遺骨は筑後大石に流れ着き、当地にも木樵神社として毎年盛大なお祭りがなされています。
瀧神社社務所
(案内板より 原文のまま) |