赤田神社(あかだ)    HOME  blog

鎮座地 〒753-0811 山口県山口市吉敷780 旧周防国 吉敷郡  
電話  083-922-7582(赤田神社宮司宅)
旧社格等  県社  
御祭神  ・大己貴命
 ・須勢理毘賣命
 ・少彦名命
 ・猿田彦大神
 ・柿本人命
御由緒  周防四宮  
  
赤田神社
一、御祭神
   大己貴命(大国主命)
   少彦名命 猿田彦大神
   柿本人麻呂
一、祭日
   祈年祭(春祭り)四月九日
   例祭(秋祭り) 十月第三日曜日
   新嘗祭     十一月下旬
一、由緒
 当社は、今から約一九〇〇年前、成務天皇九月九日(一三九)に、出雲国杵築の大社(現在の島根県の出雲大社)から大己貴命の御分霊をお迎えして、ここから約三キロメートル南方の吉敷中村の地にお祀りしたのが始まりといわれています。
 その後、養老元年(七一七)に神様のお告げによりこの地にお遷しし、爾来約一三〇〇年間、吉敷地区の中尾、赤田、佐畑、中村、木崎の里の氏神様として厚く信仰されてきました。
 また、防府の玉祖神社(一の宮)、徳地の出雲神社(二の宮)、宮野の仁壁神社(三の宮)、大歳の朝田神社(五の宮)と共に周防五社の一つに数えられ、その第四番目に当たることから「四の宮さま」の呼称で地区民をはじめ近郷の人々に親しまれてきました。
 現在の社殿は、江戸時代後期の建立で、拝殿の天井には内藤鳳岳画伯作の竜が描かれています。また、社殿の彫刻は、吉敷出身の内海忠勝元内務大臣の実兄吉田岩亀翁の作といわれています。この作者二人は共に吉敷に大変かかわりが深く、私たち吉敷地区民のすばらしい財産でもあります。
 (境内由緒掲示板より)

 赤田神社 〔通称しのみやさま〕
鎮座地 〒753-0811 山口市大字吉敷赤田780番地
           
祭神 (主祭神)大己貴命(おおなむちのみこと) 少彦名命(すくなひこなのみこと)
        猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)           
   (配祀神)柿本人麿(かきのもとのひとまろ)
主要祭典 例祭(10月9日)、春祭(4月9日)、新嘗祭(11月中旬)、
     四宮初恵比須(2月3日・末社恵比須神社例祭)
由緒沿革 
 社伝によると、当社は出雲国杵築大社(出雲大社)から、祭神大己貴命御分霊を奉祀したという。
当初、吉敷村の中央(現在の吉敷中村、旧鎮座の処には今も遥拝所があり、古来古四宮と称されている)に斎き祀り、良城(よしき)大神宮と呼ばれた近郷の大社であった。
 しかし、奈良時代の養老元年(717)に至り、祭神の託宣により、其の北方約20町にある嶮峻(けんしゆん)なる巌壁の麓に御社を奉遷し、地名に因んで赤田大神宮と改称した。この遷座の時、相殿二神を勧請したと伝えられる。
 また『三代實録』によると、平安時代の元慶2年(878)に、「従五位下の神階」が授けられて官社に列している。このため縦三尺横一尺四寸余の勅額の奉納があり、今もその写し(草場氏書といわれている)を保存している。当社が四宮を称されるのは、大内氏崇敬の五社のうちの第四番目に当たるためである。室町時代の明応6年(1497)、大内義興卿が当社に参詣し、神馬・神楽を奉納したことが、『五社参詣の記』に見える。この書により当時の人々が、五社参詣をする習慣があったことを知ることができる。
 室町時代の天文12年(1543)、大内義隆卿が当社の頽(たい)廃の甚しきを見て、社殿を造替した。
現在の社殿は幕末期の建立で、社殿彫刻は吉田岩亀翁(内海忠勝の実兄)が、また拝殿天井には内藤鳳岳画伯が手がけ、いずれもみごとなものである。両氏とも当吉敷出身者で、その意味からも氏子の大切な財産となっている。
 明治6年(1873)郷社に、大正13年(1924)県社に列せられた。
 (山口縣神社誌より)
参拝月日  03/12/2008

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大鳥居 拝殿