御由緒 |
御由緒
御祭神
伊邪那岐之神
天之手力男神
伊邪那岐之神ハ天地開闢ノ初祖神ノ詔ヲ奉シテ修理固成ノ天業ニ就カセ給ヒ皇土郡品ノ祖現世司命ノ神ニ坐シマス
天之手力男神ハ皇國肇造ニ當リ天ノ岩戸ヲ開キテ 皇祖ノ御稜威ヲ光被セシメ給ヒ天業翼賛ニ神功ヲ顕シ給ヘル神ニ坐シマス
抑モ本社ノ鎮座ハ悠遠ニシテ詳カナラスト雖モ社傳ニ依レハ文武天皇ノ御宇大寶元年越中守佐伯有頼神教ヲ蒙リテ立山ヲ開キ社殿ヲ創立セリト云ヒ傳フ
神階ハ清和天皇貞観五年九月正五位上ヲ宇多天皇寛平元年八月従四位下ヲ授ケラレ給ヒ延喜ノ舊社ニシテ世々領主武将ノ尊崇篤ク多クノ社領社僧ヲ有シ規模宏大越中随一ノ大社タリ又日本三霊山ノ一トシテ崇敬者全國ニ洽ク古来越中ニテハ男子十五歳ニシテ立山ニ登拝セサル者ハ男子ノ數ニ入ラストノ傳統的信仰有リ夏期登拝スルヲ例トセリ
畏クモ 聖上陛下大正十四年新年ノ御歌ニ
立山の空にそびゆるををしさに
ならへとぞ思ふ御代の姿も
ト詠マセ給ヒテヨリ神威彌々四表ニ耀キ給フ
明治六年縣社ニ昭和十五年十一月國幣小社ニ列セラレ給ヘリ
當社神殿ハ建久年中源頼朝ノ創建ニカカリ其後足利義稙佐々成政造營セルモノニシテ明治三十九年四月國寶建造物ニ指定セラル
祭日 四月八日 古式大祭
十一月三日 秋 祭
雄山神社前立社壇
(境内由緒掲示板より)
重要文化財 建造物
雄山神社前立社壇本殿
明治三十九年四月十四日指定
概説
雄山神社前立社壇の起源は定かではないが、岩峅の地名は、磐座(神、精霊が来臨する岩石の座)に通じるとされ、小字名の「岩坂」も「磐境」の神聖な意味から転じたものと思われる。
立山山頂にある峰本社の里宮として創建され、古くは大宮立山寺と呼ばれ、江戸時代には岩倉寺、そして明治時代には岩峅寺雄山神社遥拝所と呼ばれてきた。
社伝によると、建久二年(一一九一年)に源頼朝が再建し、明応元年(一四九二年)足利義稙によって修復されたとしている。
その後も富山城主佐々成政の庇護を受け、加賀藩前田家の所領後は、藩主一族の武運長久、息災延命、五穀豊穣などを祈る祈願所として厚く保護された。
本殿は和様の斗栱組で、五間社流れ造りである。一間大面取リの向拝を付けて高い階段を覆い、下は浜床の様式をとり、総体は素木造りである。
昇り階段下の向拝柱は角柱で、大斗をのせ、その上には虹梁を懸け、木鼻は象形で芭蕉葉図案の手挟によって屋根に取り付けている。
また、本殿は、大丸柱上に大斗をのせ、柱間には中央に神紋、双方に日・月、その他の図案彫刻を施した蟇股をはめ込んる。
破風の拝下には「いの目懸魚」を懸け、屋根はもと柿葺きであったが、現在檜皮葺きである。
とくに蟇股彫刻や向拝の手挟、木鼻などは、室町中期の様式を示している。
明治三十九年四月十四日付けで特別保護建造物に指定され、文化財保護法の施行によって、国指定の重要文化財となる。
立山町教育委員会
(表参道案内板より)
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