熊野那智大社(くまのなちたいしゃ) HOME blog

鎮座地 〒649-5301 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字那智山1 旧紀伊国 牟婁郡  
電話  0735-55-0321
旧社格等  官幣中社(現別表神社)
御祭神  ・大穴牟遲神 ・家津御子神 ・御子速玉神 ・熊野夫須美大神 ・天照皇大御神 ・正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命
 ・天迩岐志國迩岐志天津日高日子番能迩迩藝命 ・天津日高日子穗穗手見命 ・天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命
 ・國狹槌尊 ・宇比地迩神 ・意富斗能地神 ・淤母陀琉神
(配祀)
 ・國常立神 ・伊邪那岐神 ・黄泉事解男神 ・豐雲野神
 (平成祭データ)

 御祭神
第一殿 滝宮(飛瀧権現遥拝殿) 大己貴命(千手観音)
第二殿 証誠殿 家都御子大神(国常立尊・阿弥陀)
第三殿 中御前 御子速玉大神(伊弉諾尊・薬師)
第四殿 西御前 熊野夫須美大神(伊弉冉尊・千手観音)
        以上の第二殿から第四殿までが主祭神。
第五殿 若宮(若一王子宮) 天照大神(十一面観音)
第六殿(上下八社殿)
    禅師宮 忍穂耳尊(地蔵)
    聖宮 瓊々杵尊(竜樹)
    児宮 彦火々出見尊(如意輪観音)
    子守宮 鸕鷀草葺不合尊(聖観音)
    一万宮 国狭槌尊(文殊)
    十万宮 豊斟渟尊(普賢)
    勧請十五所 埿土煮尊(釈迦)
    飛行夜叉 大戸之道尊(不動)
    米持金剛 面足尊(多聞天)
 (神社辞典・東京堂出版より)
御由緒  熊野那智大社は、新宮市の速玉大社、本宮町の本宮大社とともに、熊野三山と申し、全国三千有余社の熊野神社の御本
社であります。当熊野那智大社の起こりは神武天皇の御代に始まり、仁徳天皇5年に社殿を造り(凡そ1670年前)
宇多上皇より始まる歴代上皇が熊野詣でを遊ばされた処で都より山河80里はるばると1ケ月も費やしてお越しになり
ました。それは那智山熊野権現信仰が厚かった為でございます。
 信仰の上から申しますと、那智のお山は夫須美神、又の御名を伊邪那美神と申す方のお社であり、ここが常世の国で仏
法でいえば補陀洛と称して浄土とみたて、現世とあの世をかけて慈悲を乞うたことに始まり、いろいろの願いを込め、
心願の成就を念じた霊場です。ただ今「熊野那智大社」と申しておりますこのお社は、16代仁徳天皇の5年に御瀧本
よりお移しして建てたことに始まり、その後用明天皇の御代に国費で修築してより後20度も修営がされました。
 この社に伝わる古い信仰と長い伝統の中でも、正月元朝の「牛王神璽祭」、7月14日午前10時からの例大祭は、「
扇祭」・「那智の火祭」とも申し、扇神輿の渡御や大松明による浄めの御火行事であり、又国の重要無形民俗文化財の
那智の田楽、県指定文化財の大和舞、田植・田刈式や那瀑舞が奉納されます。 
 (平成祭データ)

那智詣の案内
 紀伊半島の南東部を「熊野」と云ひ、本州の最南端でもあり太平洋の黒潮により気候は温暖にして山は重畳と連なり、山紫水明の景勝の地であります。
 クマとは奥深い処、神秘漂える処、聖なる処、即ち「神の里」と位置づけ、日本一の名瀑那智の御滝、瀞八丁、紀の松島の海岸美などと共に、海の温泉、勝浦・湯川、山の温泉、湯ノ峰など自然に恵まれた地であります。これらの気候と風土により、古代より神の国、常世の国、美し国として栄え、ここに熊野三山 (速玉大社・本宮大社・那智大社) が鎮座したことが 「帝王編年記」 「扶桑略記」 「水鏡」などに著わされており、古くは「古事記」「日本書紀」には国うみ神話とともに、イザナギ・イザナミ・スサノオをはじめ多くの神々が熊野を舞台にしており、神武東征説話にも意義深いものがあります。
 熊野は、古代から大和、出雲と共に栄えた地であり、今にして神秘と未知の世界であります。熊野には自然を畏敬した古代山岳信仰が始まり仏教の伝来により密教思想が山岳信仰と合致し、神仏習合の世界が開け永くその伝統が続いたものであります。この神仏習合の信仰は平安初期に熊野別当が認められ熊野は聖域として朝廷からも敬われることゝなりました。このことを熊野比丘・比丘尼・修験者達が全国に熊野信仰と共に広め、慈悲の精神文化は全国の人々を熊野詣へと駆りたて「蟻の熊野詣」と呼ばれる様になり、全国各地に熊野神社が三千有余社も勧請されています。

熊野那智大社
 熊野那智大社は、新宮市の熊野速玉大社、本宮町の熊野本官大社とともに『熊野三山』と申し全国約三千有余社の熊野神社の御本社であります。当那智山の信仰は神武天皇の御代に始まり、仁徳天皇五年に社殿を造り(凡そ一六八〇年程前)宇多上皇より始まる歴代上皇が熊野詣を遊ばされた処で、都より山川八十里はるばると一ヶ月も費やされました。
 熊野は山又山の奥で、昔から霊地となっていました。那智とはこの地では「ナグチ」とか「ナギタ」など山の入口といったことから出ているとも申します。この山中に開闢以来今に変ることなく落ち来る大滝の偉観は神気をたゞよわせ、こゝに神の社を作り霊感を仰いだのがこの社の起りであります。仏教の伝来により、神に併せて仏をまつり神仏習合の信仰となり長くこの地が栄え、山伏もこゝを行場として発達し、御滝本六十六人衆などという人々が居りました。
 神武天皇がこの地に御上陸の折に八咫烏となってお助けしたのもこの山伏であったであろう。後に修験者、御師、比丘、比丘尼となって、上皇様や、将軍、大名や諸国の檀那等をこの那智に案内し、女院、公卿、武家、中でも平清盛・重盛、源義国、北条政子、さては文人、歌人から一般の人々に至るまで陸続と参拝しました。是を世に『蟻の熊野詣』と申します。       唯今、『熊野那智大社』と申しますこのお社は、十六代仁徳天皇の五年にお滝本よりお移しして建てたに始まり、その後用明天皇の御代に修築してより二十数度も修営がなされました。平重盛が参拝記念に手植した樟が今も社前に残っています。後陽成天皇天正十八年には豊臣秀吉公が改修し、享保の年徳川幕府が数千金を献じて修営資金にしました。これが熊野三山金貸業と申し今の銀行の先駆を為したのです。その後天保、嘉永の修営がありました。現在の建物は昭和九年から十三年に亘って改修したものでありますが、昭和の終りに茸替、塗替補修をいたしました。
 丹塗りの社殿は両部神道の影響でもあり、本殿は熊野権現造と申しそれぞれ鈴門を設けてあります。御本殿は、正面の三殿を根本熊野三所権現と申し、証誠殿には家津御子神を、中御前には御子速玉神、西御前は当社の御主神で熊野夫須美神を祀り、この三殿の外に、滝宮(大穴牟遅神)若宮(天照大神)や八社殿とありまして世に熊野十二所権現(当社は十三所)と申し、平成七年には国指定文化財となりました。
 この社に伝わる古い信仰と、長い伝統の中でも正月元旦の「迎水秘事」、「烏牛王神璽祭」、七月十四日の午前十時からの例大祭は「扇祭」「那智の火祭」とも申し、扇神輿の渡御や、大松明による浄めの御火行事、国指定重要無形民俗文化財の那智の田楽、県指定の大和舞、田植澤田刈式や那瀑舞が奉納されます。
 那智のお山は、夫須美神又の御名を伊邪那美神と申すお社で ここが常世の国で仏法でいえば補陀洛と称し、浄土とみたて現世とあの世をかけて慈悲を乞うたことに始まり、種々の願いを込め心願の成就を念じた霊場で、徳川末まで続いた神仏習合の信仰は神仏分離令により途絶え、明治七年観音堂を「青岸渡寺」として再興されました。
 由緒深きこの熊野には種々の想い出が末長く美しく残ることゝ存じます。
 (神社パンフレット「熊野那智大社の信仰と歴史の道」より)
参拝月日  04/04/2009

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一の鳥居 拝殿