「式内社」揖夜神社(いや) HOME blog

鎮座地 〒699-0101 島根県八束郡東出雲町大字揖屋町2229 旧出雲国 意宇郡 
電話  0852-52-6888
旧社格等  県社
式内社 出雲國意宇郡 揖夜神社
御祭神  ・伊弉冉命
 ・大己貴命
 ・少彦名命
 ・事代主命
(配祀)
 ・武御名方命
 ・経津主命
御由緒  揖夜神社御由緒略記
謹みて按ずるに當社は
 伊弉冉命  大巳貴命
 少彦名命  事代主命
の四柱大神を齊き祀る。その御鎮座の由緒はえい沓遠にして詳悉すべからずと云へども、既に古事記神代巻には伊賦夜坂に就いて記され、降って日本紀齊明天皇御紀五年(紀元1319年1275年前)是歳の絛に言屋社言屋此云伊浮耶出雲風土記に伊布夜社延喜式神名帳に揖夜神社と載せられたり、古来朝廷の御崇敬厚く、三代實録に清和天皇の貞観九年五月二日(紀元1527年1617年前)揖屋神従五位上、同十三年十一月十日(紀元1531年1613年前)揖屋神正五位下御神階の御事見え特に出雲國造奉仕の神社として仄くより別火の職を定めらる。
 固より歴代武将の崇敬も他に異なるものあり、天文十二年三月廿七日(紀元2203年391年前)大内義隆は太刀神馬を進獻し、同廿四年二月廿八日(紀元2215年379年前)尼子晴久は出東郡氷室庄の内百貫を寄進し、天正十一年十一月廿四日(紀元2243年151年前)毛利元秋は社殿を造立し、慶長六年卯月廿六日(紀元2261年333年前)堀尾吉晴は社領四十石を寄せ、元和元年十一月廿七日(紀元2275年319年前)同忠晴は社殿を再建し、寛永十一年九月廿六日(紀元2294年299年前)京極忠高は舊領を安堵し次いで社殿の修造を行ひしが、更らに松平氏に迄っては、寛永十五年十二年六日(紀元2298年296年前)初代直政社領五十三石を定めて年中の祭事を執行はしめ爾来歴代の藩主咸この例によれり、而して社殿の營繕は所謂御修覆社として同藩作事方の手に成り、御遷宮には藩主の代参立ち、又古例によりて出雲國造の奉仕ありき。
 明治五年二月郷社に列し、同四十年四月廿八日勅令による神饌幣帛供進神社の指定を受け、大正十五年十一月廿二日縣社に昇列す。
 當社は意宇六社(熊野神社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として広く知られ、六社参りと唱へ参拝者が甚だ多い。

大祭  例祭  十月十九日
祈年祭 四月十九日
新嘗祭 十一月二十五日
古傳祭 田打祭 一月三日
田植祭 六月
穂掛祭 八月二十八日
一ツ石神幸祭 同日
 (平成祭データ 境内由緒碑も同文) 

 揖夜神社
出雲地方でも熊野大社(八雲村)と共に最も古く、風土記に「伊布夜(イフヤ)杜」と記され、日本書紀斉明天皇の条に「言屋(いふや)社」の名で登場する。本殿は大社造りで、五色の八雲、極彩色の神事の障壁画が扉に描かれている。豊作豊漁を祈念する祭礼として毎年8月28日に穂掛け祭が賑やかに行われる。
 (社頭案内板より)

 黄泉比良坂(よもつひらさか)
黄泉(あの世)の国と現世の境界の地として古事記上巻に、伊邪那岐(いざなぎ)命が先立たれた最後の妻伊邪那美(いざなみ)命を慕って黄泉の国を訪ねて行かれた入口が、この地(黄泉比良坂)であるとされている。
別名「伊賦夜坂」の起源でもある。昭和15年に「神蹟黄泉比良坂伊賦夜伝説地」と刻んだ石碑が設立された。
 (現地案内板より) 
参拝月日  10/20/2008

写真をクリックしてくださいフォトアルバムに移動します。
境内入口の鳥居 拝殿