隠岐國一の宮「式内社」由良比女神社(ゆらひめ) HOME blog

鎮座地 〒684-0211 島根県隠岐郡西ノ島町大字浦郷922 旧隠岐国 知夫里郡  
電話  08514-6-0675
旧社格等  郷社
隠岐國一宮
式内社 隠岐國知夫郡 由良比女神社二座 元名和多湏神 名神大
御祭神  ・由良比女命
御由緒  由良比女神社
祭神 須世理姫命
   (土地では由良比女大神)
例祭 7月28日
特殊祭 神帰祭(かみがえりさい)11月29日
由緒
 当社は仁明天皇承和九年(842年)官社に預かり承和一五年、清和天皇貞観八年、陽成天皇元慶元年に朝廷より鄭重な祈祷ありと六国史に見え、醍醐天皇の延喜式(905年)に名神大・元名和多須神とあり、袖中抄、土佐日記に「ちぶり神」としてあります。
 海上安全守護の神として遣唐使や使節を遣す時、新羅の賊兵を防ぐなど大陸交通の要点として隠岐の国の諸神とともに朝廷に尊崇せられ、一般世人にも信仰されたと思われます。
 平安朝末期に隠岐国の一宮と定められましたが、以後徳川時代の中頃まで衰微していました。
寛文七年(1667年)松江藩士斉藤豊仙の隠州視聴合記に「由良明神と号する小社あり極めて小さく古りはてて亡きが如し」とあり、元禄九年(1696年)一国一宮に詣でし橘三喜、都々美一光もその衰微を慨き神光あらわれることを願い、都々美一光は 
 おきつ風吹きつたへなむ由良姫の御籬によする浪のしらゆふ と詠って去りました。
慶長一二年、元禄五年に本社建立をしていることは里人もかなり努力したと思われますが、衰微の原因として武士の時代になると遠流の地隠岐の国は、覇権を奪るには不要な土地であり、造船、航海術の進歩は九州拠点となり、隠岐の神々の加護を必要としませんでした。また、田畑の少ない浦郷では、天災による影響も大きかったことが神社衰微の原因と推測されます。
 安永二年(1773年)島前十三ヶ村の庄屋が集まり、御旅祭の再興を相談していることは島前に於ける当社の位置を示しています。
 明治五年郷社に列し、二十二年精巧な本殿を改築し、昭和六年拝殿改築、境内地を整備して神域を整い、昭和五十年島根県特別神社に指定されました。
 (神社パンフレットより)

 由良の浜「いか」寄せのこと
伝説
一、祭神当地にご渡海の際に海に手をひたしたところ美しき姿を見て「いか」が噛みついた。
  その非礼をわびて「いか」が寄るようになったと伝えられています。
二、神武天皇の御代に祭神が「いか」を手に持って現れたとも伝えられています。
三、当社はもと知夫里島の「いか浜」にあったが浦郷の由良の浜に神社が遷されてから
  「いか」・が「いか浜」には寄らなくなったとも伝えられています。
四、十一月二十九日の夜には祭神が出雲の国から帰ってこられるので、神帰祭が奉仕されます。
  この夜には多少にかかわらず「いか」が寄ると伝えられ戦後も随分このことがありました。
実績                   。
一、昭和三年二月当地の住民二名で数万匹の「いか」を拾い浜は足の踏み場もないほどで、
  一人は水田、一人は畑を各々一反歩買ったとのこと。
二、昭那二十年秋は、終戦直後で日本中食料難、、金より物の時代、当地の警察官が小舟いっ
  ぱいの「いか」を拾い売却し、これを事業資金にして転職したとのこと。
三、昭和四十三年十一日三十日夜、当地の浦郷警察署の署員が歳末警戒の帰途「いか」の寄る
  のを発見し、署長、非番職員に土地の者も加わって一万六千匹拾いました
昔は
「いか」拾い小屋が連立していました。当社は「するめ大明神」「いか神様」として崇敬を
 集めています。土地の人達は殆ど「いか」拾いの経験があります。
 数百匹、数千匹も珍しいことではなく、拾った人の個人所有で上納などのことはありません。
なぜ最近「いか」が寄らないのか
「いが」が寄るのは十一月から二月まで。日本海中央、大和推の多数のいが釣り船、海況の
 変化、埋立による由良湾の狭少、養殖いけす、防波堤などの漁業施設、昼夜を分かたぬ漁船
 の航行などが考えられます。
 しかし、浦郷湾内にある二統の大敷網には十二~一月は「いか」が沢山とれています。
 近年、秋には紅イカ(土地ではドゥタレイカ体長一米)が沢山とれています。
   平成四年四月 由良比女神社宮司
 (社頭案内板より)

 隠岐島前の文化財 有形文化財(建造物)
  由良比女神社本殿
所有者 由良比女神社
特徴、由緒等
二間社春日造変態、向拝唐破風  明治二二年建造
大工棟梁角谷六太郎                ぶ
 建築様式については、かつて「大社造変態」と称していたが、「春日造」に近い処から現在では「春日造変態」ということになっている。
 しかし、このような様式のものを出雲では「明神造」と称している。県内の建築様式一覧(神国島根)にも「明神造」が数社あるが恐らくこれらは同系のものと思われる。いわゆる和様建築は「三斗組」の集合体であるが、「権現造」等の成立する江戸期には多くの彫刻を付した華麗なものとなった。
 この神社は延書式では「明神大社」に列せられた名社であるが、近世には一時衰微し社殿も小規模なものであったが、明治に至り、氏子の総意が結集されてこのような立派な社殿が建造されたのである。
 建築年代は明治時代で新しいものであるが、島前地区には焼火神社を除き江戸期における神社建築は皆無であるので、代表的なもの三社を指定した。
(他に 美田・美田八幡宮本殿 海士町・宇受賀命神社本殿)
  昭和五七年 隠岐島前教育委員会指定
 (社頭案内板より)
参拝月日  10/22/2008

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境内入口の鳥居 社殿全景