豊前國一の宮 「式内社」宇佐神宮

鎮座地 〒872-0102 大分県宇佐市大字南宇佐2859   
電話  (代)0978-37-0001 
旧社格等  国幣大社 
 豊前国一の宮
式内社 豊前國宇佐郡 八幡大菩薩宇佐宮(名神大)
式内社 豊前國宇佐郡 比賣神社(名神大)
式内社 豊前國宇佐郡 大帯姫廟神社(名神大)
御祭神 一之御殿 八幡大神
二之御殿 比賣大神
三之御殿 神功皇后
御由緒  まず社名について。奈良時代にはただ八幡宮・八幡神宮・八幡神社 八幡大菩薩宮等と呼ばれていたが、平安時代に京都に石清水八幡宮が創建されてからは、石清水八幡宮と区別する意味で宇佐宮・八幡宇佐宮・宇佐八幡宮と云うように「宇佐」の字をつけるようになった。
 明治六年、官幣大社宇佐神宮となり、昭和二十年、社格制度廃止により、今の宇佐神宮となった。
宇佐の地に初めて八幡神が御示顕になられたのは、欽明天皇の御代に御許山(おおもとさん)(宇佐神宮奥宮大元神社鎮座)に顕われた。
また同天皇三十二年(五七一)に現本殿のある亀山の麓の菱形池の辺に神霊が顕われ、「われは誉田天皇広幡八幡麻呂なり」と告げられたので、この地に祀られたのが宇佐神宮のはじまりである。
その後和銅五年(七一二)、鷹居社が社殿として初めて造立され、霊亀二年(七一六)小山田社に移り、神亀二年(七二五)現在の亀山に移され第一之殿が造立された。
天平元年(七二九)には第二之殿、弘仁十四年(八二三)には第三之殿が造立され、現在の形式の本殿が完成した。
養老三年(七一九)大隅・日向の隼人が反起したので、八幡神は託宣により神輿を奉じて日向まで神官・僧侶と共に行幸され、これを鎮めた。この隼人の霊を慰めるため天平十六年(七四四)、和間浜で「放生会」が行われた。
これが全国各地の八幡宮で行なわれている放生会(ほうじょうえ)の起源ともなった。
また天平十年(七三八)、聖武天皇の勅願で境内に神宮寺「弥勒寺」が建立てられた。
聖武天皇が天平十五年(七四三)、東大寺大仏建立を発願したが、難工事となり八幡神に無事完成を祈念した。
これにたいし全面的に協力し「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」また大仏に塗る泥金が不足すると「必ず国内より金は出る」と次々と託宣を発し大事業も無事に完成した。
 天平二〇年(七四八)には東大寺の守護神に勧請され、その後東大寺の脇に手向山八幡宮が建てられた。
このように八幡神は仏教と早くから融合し「八幡大菩薩」の称号を賜わった(七八一)。
また孝謙天皇の時、皇位をねらう弓削道鏡(ゆげのどうきょう)の事件が起き、神護景雲三年(七六九)に大宰主神中臣習宜阿蘇麻呂(だざいのかんずかさなかとみのすげのあそまろ)は「道鏡を皇位につければ国平らかならん」と八幡神の託宣があったと天皇に奏上した。
その真偽を確かめるために和気清麻呂を勅使として宇佐へ遣わし、「我国は開闢(かいびゃく)以来君臣のこと定まれり、臣をもって君とするはいまだこれあらず。天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の者よろしく掃除すべし」と託宣をうけ道鏡の野望を退け、国体を鎮護することができた。
これにより一層朝廷より崇敬されるようになった。
以来勅使は「宇佐使」や「和気宇佐使」と呼ばれ、特に天皇の即位奉告の勅使には代々和気氏が任命されたので和気宇佐使と呼ばれた。
宇佐の地方神であった八幡神が八世紀には朝廷とむすびつき、国家神にまでになった。
 さらに貞観元年(八五九)大和の大安寺の僧行教が「われ都の近く移坐り、王城を鎮護せん」との託宣を受け、京都男山に八幡神を勧請して石清水八幡宮を建てた。
後に鎌倉に鶴岡八幡宮(一〇六三)が祀られ、弓矢八幡として武士の信仰も厚く、全国各地に八幡宮が祀られ庶民からも親しめる神となった。
 建久七年(一一九六)の宇佐大鏡によると、平安時代の全盛期には九州の農地八万町歩のうち宇佐宮は二万四千町歩の荘園があり全体の三分の一を占めていた。
この経済力が八幡文化の基礎となり、且つ大分県の文化・政治でもあった。県北の国東半島では養老年間に八幡神の化神「人聞」(仁聞・にんもん)が開いたといわれる六郷満山の仏教が開華し、宇佐氏による伝乗寺や富貴寺などの寺院が建立されて、中世には本山・中山・末山の三山組織ができ、国東独特の山岳仏教文化が生れた。
また県南では大神氏による臼杵石仏に代表される豊後石仏群が出来上がった。(全国の石像美術の九十パ−セントは県内にある)しかし源平の争いには平氏に加担したため、緒方惟栄の焼き打ち(一一八四)にあい社殿・寺院ことごとく全焼し、多くの財宝や資料を失った。
 南北朝には大宮司家も二に分裂して到津家は南朝に、宮成家は北朝につき対立した。この内乱により三十三年に一度続いた式年造営も出来なくなり、ますます衰えていった。
 室町時代になると豊前の守護職大内盛見は宇佐宮造営に着手し、十二年の歳月を掛けて、永享二年(一四三〇)に完成した。このときの造営が古代宇佐宮の名残を留める最後の造営でそのときの遺産として「応永の古図」や神輿が残っている。戦国時代になると、豊前の大内、豊後の大友の両氏に挟まれて宇佐宮の神職も武士化した。
 永禄五年(一五六二)、大友宗麟の焼き打ちにあい社殿他ことごとく焼失した。このようにしかし武士の時代になると、神社の経済基盤であった荘園が少なくなり、また何度も戦火にあい急速に衰えていき、盛時の面影は無くなってしまった。
 天正十五年(一五八七)、豊臣秀吉の九州征伐では神領は没収され、また黒田孝高により平安以来の神宝刀剣九十余振を奪われ苦難の時代であった。しかし黒田孝高の子黒田長政は宇佐宮の造営を思い立ち文禄元年(一五九二)、着手して慶長四年(一五九九)には二之御殿が完成した。
黒田氏の後小倉藩主となった細川忠興は慶長六年(一六〇一)、宇佐宮に五百石を寄進し、さらに慶長十一年(一六〇六)には三百石を寄進し行幸会を復活した。慶長十五年には三之御殿を造営し、年次社殿堂宇五十余棟を造営して、落ちぶれていた神官社僧百数十家も禄をえて復帰して、放生会・行幸会の二大行事が復活した。
 正保三年(一七二八)には徳川家光が神領十して千石を寄進した。享保八年に上宮が火災のため全焼して、享保十三年(一七二八)に臨時の造営に着手し、元文五年(一七四〇)頃完成した。
この遷宮を祝い中絶していた宇佐奉幣使として飛鳥井中将が延享元年(一七四四)、参拝した。
文久三年にも本殿を修理して、これが今の本殿である。
 明治元年の神仏分離令が出され、廃仏毀釈の旋風も激しく、仏像をはじめ多くの仏教美術品が失われた。
昭和六十年の勅祭を記念して宝物館を建設し、貴重な文化財の保存や散逸した宇佐宮関係の文化財の収蔵に勤めている。
以上
(平成祭データ)
参拝月日  04/26/2003

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                 一の鳥居                                    勅使門