| 御由緒 |
由緒
本社は延喜式内の古社で伊勢国一之宮である。本社はまた、雄略天皇二十三年に伊勢国造高雄東命が勅を奉じて創建し、中跡直廣幡が宣旨より初代の祭主となった。白河天皇より正一位の勅額を賜わり、花園天皇の正和年中に摂政藤原冬平の執奏により神伝記を天覧に供し、後小松天皇の嘉慶年中に征夷大将軍足利義満が富士登山の帰途当社に参詣して幣帛を供え社領を寄進した。織田信長が神戸、高岡の二城を攻略の際、本社は兵火に罹り社殿が消失した。その後、一柳監物の援助で社殿を復興し、明治三十六年に県社に昇格した。猿田彦大神を主祭神として奉斎、御神徳を慕って、全国から参拝者が絶えない。
以上
(平成祭りデータ)
都波岐奈加等神社の御由緒
当都波岐奈加等神社は、延喜式内で小社ではあるが、伊勢国一の宮である。創立は、雄略天皇の二十三年三月で、猿田彦大神八世の孫、伊勢国造高雄東命が勅を奉じて伊勢国河曲県中肺里(現鈴鹿市一ノ宮町)に二社を造営し、その一社を「都波岐神社」、また他の一社を「奈加等神社」と称したのが始まりである。社殿は、一つで二社が相殿の神社である。
創立の際、天椹野命十五世の孫中勝直山部広幡が宣旨を受け初代の祭主を務め、その子孫が代々神主を継承し、当代で第五十八代である。
平安時代の初めの淳和天皇の天長年間には、弘法大師が本社に参籠し、獅子頭二口を奉納したと伝えている。平安時代を通じて歴代天皇の崇敬が厚く度々神階を進められたが、特に白河天皇は承層三年当二社に対して正一位を授けられ宸筆の勅額を賜った。
本社は、中世に入り更に大きな発展を示した。花園天皇の正和年中に、摂政冬平公の執奏により「神伝記」を天覧に供し、嘉慶年中には、室町幕府の征夷大将軍足利義満が、富士登山の帰途本社に参拝し、幣帛を供え社領を寄進したので多くの武士が参指したと伝えている。
また、本社の神宮寺が存在していたことも、当寺所蔵の鰐口が奈良市富屋中町の霊山寺に伝えられていることからも知られる。その銘に、「応永十三年伊勢国河曲庄中脉神宮寺、大工藤政吉」ときざまれている。
永禄年中、織田信長は伊勢平定の軍を進め近くの神戸・高岡の二城を攻略した。その際、本社は兵火にかかり社殿が焼かれた。その時、本社に伝わる白河帝の勅額以下の文書・記録の類が多く焼亡したが、幸いにも獅子頭は他所へ移し難を免れることができた。奇しき謂れのある獅子頭は、本社の大切な宝物として今日に伝えられている。
因みに、往事には、 閏年の祈年祭に、獅子頭を出して祭式を行い各地を舞い歩くことを例としていた。
社殿は、江戸時代に入り、寛永年中に、神戸城主一柳監物によって再建された。そして、江戸時代末期には、熊本県阿蘇神社・茨城県鹿島神宮と同じ、摂政家である鷹司家の執奏社として大宮司職が置かれ、大きな勢力を有した。
明治に入り、当地は、河芸郡一ノ宮村大字中戸と称するようになった。明治三十六年には、県社に列せられ更に一層の発展がみられたのである。
太平洋戦争後、著しく衰徹したが、平成九年三月二十四日早暁、明治九年の建立になる木造・瓦葺の拝殿・祝飼 慶が不審火によって焼失した。その後、氏子の計らいによって、新拝殿が翌年に再建され、十月十日に竣工式を行った。
往古より、猿田彦大神は、方位方除の神すなわち道開きの神として崇められ、その御神徳を慕い全国各地からの 参拝者が絶えない。因みに、長野県「戸隠神社のおみくじ」(吉)の一文には、「都波岐大神を信仰すべし」とある。 江戸時代の高名な国学者(本居宣長門下)の伴信友は考証研究に優れた業績を残したが、当社を「小社なれども一の宮」とその文に記している。
以下略
(都波岐奈加等神社 参拝者の栞 平成ニ十一年版) 神社パンフレットより抜粋) |