御由緒 |
土佐神社 しなね様
御祭神
味鉏高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)
一言主神 (ひとことぬしのかみ)
『日本書紀』の天武天皇四(675)年三月二日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、また朱鳥元(686)年の八月十三日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神です。この祭神、都佐の国造が奉斎したものと伝えられています。『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鉏高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鉏高彦根尊としています。この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。
御神徳
味鉏高彦根神は、大国主神の御子であらせられ、国土の開拓、農工商あらゆる産業の繁栄の神様であることが伝えられ、一言主神は、和合協調の神として一言で物事が解決されるという特殊な信仰のある神様です。
これにより当社は、古くより南海の総鎮守として家内安全、農産繁栄、建設、政治などの神様とされ、さらに御功績により航海安全、交通安全、病気平癒の神様と称えられるなど、広く開運招福の御神徳があるとして、崇敬されています。
御由緒
土佐神社の創祀については、明らかでありませんが、境内東北方の礫石と呼ばれる自然石を磐座として祭祀したものと考えられ、古代に遡ると言われています。延喜の制が布告された平安時代、醍醐天皇の御代には式内大社に列せられ都佐坐神社と称され、特に皇室の崇敬あつく勅使の参向もしばしばあり、朱雀天皇の御代天慶三(940)年には、神階を正一位に進ませられています。鎌倉時代初頭には神仏習合時代に入り、土佐国総鎮守一宮とされ、当社・神宮寺・善楽寺にて一宮を形成、土佐高賀茂大明神と称えられました。室町時代には、武門の崇敬あつく、正親町天皇の御代元亀元(1570)年には、長宗我部元親が、本殿、幣殿、拝殿を再興、安土桃山時代後陽成天皇の御代慶長六(1601)年には、山内一豊封をこの地に享けると共に以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社、末社を始め、鳥居、楼門、鼓楼を増築して、土佐の国最上の祈願所としました。明治元年、神仏分離令により、永年続いた神仏習合時代が終わり、明治四年には土佐神社と改称、社格を国幣中社に列しました。戦後、昭和二十一(1946)年官国幣社の制度が廃止され、現在では神社本庁の別表神社とされています。
社殿
元亀元(1570)年長宗我部元親公の再建御建立の現社殿(国重文)は入母屋造りの前面に向拝を付けた本殿と、その前方の十字形をなす幣殿、拝殿、左右の翼、拝の出からなります。十字形の屋根は交差した部分が重層切妻であり、他は単層切妻です。幣殿を頭とし、尾に相当する 拝の出を長くした十字形で、本殿に向かってとんぼが飛び込む形にみたてた入蜻蛉形式で、凱旋を報告する社という 意味があると言われています。
(神社パンフレット「土佐一宮 土佐神社略記」より)
土佐神社由緒
御祭神
味鉏高彦根神
一言主神
御神德
国土の開拓 農工商あらゆる産業繁栄 建設地鎮
和合協調 家内安全 開拓開運 交通安全 航海安全 病気平癒
御由緒
ーー創祀ーー
年代未詳 古代と伝えられる(一説に五世紀後半雄略天皇四年と伝えられる) 都佐の国造が土左大神を 奉斎したと伝えられる
七世紀 白鳳時代 文献に見える事柄
「土左大神、神刀一口を以て 天皇に進る」 『日本書紀』天武天皇四(675)年の条
「秦忌寸石勝を遣わして、 幣を土左大神に奉る」「日本書紀』朱鳥元(686)年の条
八世紀 奈良時代
大和賀茂氏の祖先神である味鉏高彦根神、一言主神が祀られる(賀茂氏の勢力が及ぶ )
十世紀 平安時代
醍醐天皇御代 延喜式内大社に列せられ、都佐坐神社と称す
十一世紀末~十二世紀初
土佐国総鎮守一宮とされ、土佐高賀茂大明神と称す
十六世紀室町時代後半
安土桃山時代 武門の崇敬あつく、長宗我部元親が元亀元(1570)年現存の本殿・ 幣殿・拝殿を再建
十七世紀
山内忠義が慶安二(1649)年摂社、末社、鳥居現存の楼門、鼓楼を増築、土佐国最上の祈願所と する
十九世紀
明治四年 神仏分離令(明治元年)により永年続いた神仏習合時代が終り土佐神社と改称、国幣 中社に列せられる
二十世紀
昭和二十一年 官国幣社の制度が廃止され、神社本庁別表神社となる
昭和六十二年 本殿・幣殿・非殿・鼓楼・保存修理工事が行われる
(社頭 由緒掲示板)
土佐神社参拝の栞
大国主命の御子であらせらせ、御称名も数多く土佐にます神、土佐高加茂大社・高加茂大明神などとも称えまつり日本書記によれば、創建年代は遠く上古時代とも言われます。とくに皇室の御崇敬あつく勅使の参向もしばしば有り、平安時代、朱雀天皇の御代・天慶三年(世紀940年)には神階を正一位に進ませられ、土佐の国総鎮守一の宮として当時は武門の崇敬厚く室町時代、正親町天皇の御代・元亀元年(世紀1570年)には長宗我部元親が本殿・幣殿・拝殿を再興し安土桃山時代、後陽成天皇の御代・慶長六年(世紀1601年)には山内一豊、封をこの地に享けるとともに以前の社領を免許し、二代忠義に至って摂社・末社を始め、鳥居・桜門・鼓桜を増築して土佐の国、最上の祈願所としました。延喜の制が布告された平安時代、後醍醐天皇の御代(世紀901~923年)には大社に列せられ、明治四年(世紀1871年)土佐神社と称して格を国幣社に列し、戦後昭和二十一年(世紀1946年)には永年つづいた神社制度は終わりを告げて宗教法人になりました。
以上
(平成祭りデータ) |