鎮座地 |
〒800-0024 福岡県北九州市門司区大里戸ノ上4-4-2 旧豊前国 企救郡  |
電話 |
093-371-0375 |
旧社格等 |
県社 |
御祭神 |
・天御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)
・伊邪那岐神 (いざなぎのかみ)
・伊邪那美神 (いざなみのかみ)
(合祀)奧津日子神 奧津比賣神 須佐之男神 大山祇神 大穴牟遲神 少名比古那神 豐日別命 宇迦之御魂神
保食神 高淤加美神 高淤加美命 闇淤加美命 罔象女神 建御名方神 猿田彦神 安徳天皇 平宗盛 |
御由緒 |
戸上神社略記
付記
特殊神事
当神社は北九州市門司区の最高峰戸ノ上山(海抜521米)頂に上宮、麓に本宮を有し、同一祭神を奉祀している神社であります。
社記によれば、宇多天皇の寛平年間、約1千80余年の昔、鎮西の霊峰戸上山上に三柱の大神を奉祀したことに始まると伝えています。奉祀の際、御霊代を枝折戸に奉戴して山上に奉安してから山を戸上と号し、神社を戸上神社と称するようになりました。
戸上山満隆寺について、縁起書によれば弘法大師が平城天皇の大同元年(西暦806)唐より帰朝の折、関門海峡をご通過、船中より戸上山を仰ぎ当地に下船してこの霊峰に登り密法を修め、山麓に一宇を建立し、随身供養の観音像を安置されたのが満隆寺の起源であります。
中世戦乱の世に大友宗麟の部将が門司城を攻めるに当たって、当地に乱入した際その兵火に罹り山上山下の堂宇僧坊は悉く焼失しましたが、慶長年間僧快周が再建中興しました。その後修験道に属しましたが、明治初年、神仏分離の制度となり、永く続いた神仏混交時代も終わりました。現今の大師堂はその名残と伝えられております。
久留米屋敷について、江戸時代参勤交代の制度が始まると筑後久留米藩主有馬公は、寛永20年(1643)小倉藩主小笠原公より内裏(大里)大川の川口(現在の日本製粉会社付近)の土地を借用し、船屋敷を置きましたが、当地ではこれを久留米屋敷と呼んでいました。藩主はじめ船屋敷衆は平素より戸上権現を大変尊崇し、石の鳥居、燈篭、絵馬等の寄進されたものが現存しております。久留米屋敷は幕末元治元年(1864)返還されました。
特殊神事榊頒(さかきわけ)10月5日お降りと言って神迎えの神事があり、本宮でのお祭りが終わって神璽が上宮にお還りになることをお昇りと言います。秋季大祭の最終日の10月23日朝10時、本宮を出発した山神輿は1時間程で山頂に着きます。昔から神は何かあるごとに、遠方から訪れる客(まれびと)でありました。そのまれびとを迎える方法としては、樹木の枝を切り、それを″神のよりしろ〓として取り扱っていました。樹木の枝を折りはやすことによって、霊魂の分裂増殖を信じ、守護霊としての祝福を得ようとするものです。上宮にお還しし後、神璽をお包みしていた真榊を参拝者全員に分かち与えます。いただいた人は新たな生命力を宿し、これが生活のリズムとなって明日への躍動につながる当神社の特例神事であります
流鏑馬、昔は当神社秋季大祭2日目の21日午後4時ごろには五体の神輿が大里松原の海岸に勢揃いし、お祓いが終わると昔ながらの装束に身を飾った武者が乗馬してあらわれ、勇壮な流鏑馬が行なわれて沿道黒山の観衆を湧かせたものであります。時代の変遷により、惜しくも今は行なわれていません。
御神徳、近世歴代小倉藩主の崇敬篤く、国家安穏、天下太平、五穀豊穣と江戸参勤上下の節は海陸交通の安全、武運長久を祈願してきました。また藩主のみならず遠近士庶民の崇敬も著しく、筑後久留米の有馬藩においても数々の寄進をされております。大里町民は古来、戸上権現様と称し、海陸交通安全、商売繁盛、家内安全を祈願し、御神徳に感謝し報恩の生活を続けて今日に至っております。
以上
(平成祭データより) |
参拝月日 |
11/04/2005 |