御由緒 |
当社は、明治四十一年(1908)の神社統合で、天満宮(江戸時代の明和二年=1765の再興の棟札あり)と八幡宮(室町時代の長禄三年=1459の棟札あり)が合併して成立した。
昭和三十年(1955)、町村合併により、浜出祭の特殊神事を伝える厳嶋神社を合併し、一村一社として現在にいたっている。
伝承では、天満宮は平安時代の長治元年(1104)、法住寺僧空了が太宰府から勧請したという。当初、滝の庄の総社として奉祭したが、その後当地内を転々として、室町時代の応永三十一年(1424)に松崎天神として、現地点に祭られた。
また八幡宮は、宇佐八幡宮から勧請され、「地頭豊田田耕忠種建立の棟札」がある。田耕の地名をとり、豊田氏の一族が田耕氏を名乗るようになったと考えられる。
さらに厳嶋神社は、古社としての伝承があり、浜出祭の由来も、元冠の役に敵国降伏の祈願がなされ、その戦勝により鎌倉時代の弘安六年(1283)から、浜出祭が始まったと云われている(旧村社)。
厳島明神の乳池
弘安四年の元冠の時、土井ケ浜に上陸した蒙古軍司令阿金(あかね)の奥方桂玉も乗船していたという。いち早く唐船に乗り込んで船内をさがした時、男装はしていたが出産間近い女であることがわかると、黒井近江守忠朝は「女子どもに罪はない、家に連れて行ってやれ」と、厚母の冠者高信に申付けたという。十八才の荒武者は扱い方にとまどいながらも家に連れて帰り母親に世話を頼んだが、程なく出産したという。
田耕の鬼ケ原で厳島明神の神矢であろう白羽の矢が眉間に突き射さった首実験に、北浦巡察を済した長門探題武蔵守北條師時の前に、嬰児(あかご)を抱えた桂玉を連れて来させた。雑兵どもの手で首台が運ばれ、白布を取られるや否やに、「あっ阿金、阿金さま!」と首台に向って走り寄り、右手を伸ばして阿金の兜の上を貫いている矢を握るが早いか、自分の心臓部に突き立て、身をくねらせて首級の上にのしかかって息は絶えてしまった。
ほんの一瞬の出来事で、放り出された嬰児の火のつくような泣声に漸く気がついた一同は溜息をついた。高信は腹を切って不始末・不用意を詑びようとしたが、「待て、早まるな」「もし責任を感ずるなら育ててやれ」との探題の言葉に、呆然として嬰児を抱きあげた高信に、「よいか、月の出しおに田耕なる我詞を尋ねてみよ、そちの脇差とともに霊水を授けるであろう」との厳島明神のおつげが聴えた。
その夜高信は厳島神社に礼拝して、右方崖下にきらりと光る脇差を見つけた。「これをぬき取ると霊水がほとばしるであろう。これを口にふくんでその子に与え育てよ。子の名は智貞とつけ、その脇差を守りにせよ」と告げられた。智貞はすくすくと成長し、この小池の水は絶えることなく、以後「厳島の乳池」として慕われ、今日
に及ぶ。
(『浜出祭』豊北町教育委員会刊より)
(山口県神社誌)
当社では同町神玉地区神功皇后神社との二社で行われる浜出祭があり、山口県無形民俗文化財に指定されている。七年に一回行われる神事で豊北町の東端の山側から14キロメートル離れた西端の海岸まで御神幸を行う。御神幸は田耕神社から200人余武具に身を固め装いも美しい人馬の行列である。途中、神功皇后社の出迎えを受け、400人近い行列となって土井ケ浜に向かう。
伝説では蒙古来襲の兵の霊を鎮めるとも言われているが山と海、男神、女神の再会の祭りであり、陰陽和合の祭りとも言われる。
(平成祭データ)
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