滝部八幡宮(たきべはちまんぐう)                     HOME   blog 

鎮座地 〒759-5511 山口県下関市豊北町大字滝部3158 旧長門国 豊浦郡  
電話  
御祭神  ・應神天皇
 ・仲哀天皇
 ・神功皇后
(合祀)
 ・豐受大神
 ・大山津美神
 ・大物主神
 ・熊野大神
 ・厄神
旧社格等   郷社 
御由緒  宇佐八幡宮より勧請したとも、町内神田上一の宮より勧請したとも伝えられる。
滝部上組・中組・下組・末組の氏神として、鎌倉時代の弘長三年(1263)に創建という。
 室町時代の応永九年(1402)、戦国時代の天文十六年(1447)、江戸時代の享保二年(1717)、嘉永元年(1748)に再建されている。
寛文七年(1667)、氏子有志により梵鐘が奉納され現存する。
享保二十年(1735)、滝部村中に牛疫が流行したので、牛疾退散のため赤崎社に楽踊りを奉納した。これが腰輪踊りの始まりという。
 明治十二年(1879)、八幡宮境内に赤崎社を遷座する、明治三十九年(1906)の神社統合令により熊野社・中原八幡宮を始め、多くの小祀社を合祀し、境内の大改修を行った。阿川毛利氏による当八幡宮への篤い崇敬は、江戸時代を通して行われ、数々の奉納品が残されている。
 境内には、吉田松陰撰文の烈婦登波碑や、樹齢七〇〇年以上と言われるイチイガシがある。
昭和四年(1929)郷社に昇格。昭和九年(1943)、主祭神応神天皇一六二五年式年祭を斎行し、正面玉垣や二ノ鳥居の設置が行われている。
 (山口縣神社誌より)

 烈婦登波の碑
登波は滝部の宮番甚兵衛の次女であって、父甚兵衛と肉親数名を些細なことから殺傷した(文政四年・1821 )石見の浪人枯木竜之進を討とうとして苦心惨胆、六十余州を遍歴し遂に豊前の彦山で本望を遂げた。(天保十二年・1841)
 この事跡について、先大津代官勝間田盛稔は安政三年(1856)藩に申請して、登波は表彰され褒美を与えられた。
 その後、先大津代官となった周布政之助は、登波の表彰文をその師吉田松陰に依頼した。松陰は一ヶ月の間、松下村塾の授業を休んで成稿した。(安政四年・1857)
 その後、登波表彰のことが永く止んでいたのを、長府の桂弥一の進言によって、大正五年(1916)に地元の有志が発起し、中山太一の寄付によって建碑されたものである。 
  豊北町、豊北町観光協会
 (案内板より)

参拝月日  08/25/2007

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             一の鳥居                                      拝殿