御由緒 |
社記に曰く、神宮皇后三韓征討の時、此辺邑を領する田原麻瑠なる者随行す。欽明天皇三十一年譽田天皇宇佐の里に顯れ給ふ時、田原麻瑠の子孫此の地に勧請せしと也。
貞觀十八年田原麻瑠の裔田麿神託を奉して之を草造すと。宇佐神宮旧神職大宮司到津家所蔵古文書に云、田河郡位登郷原乃楠乃森正八幡宮貞觀十八年大菩薩託村主田麿曰、田河郡位登郷原乃楠乃森者吾母香椎明神三韓征伐仁従比志田原麿乃住女流處奈里吾礼是礼仁因美穂波乃本宮仁行通布度仁常仁休息良倍杼宿流可支家无志、汝田麿為吾宮造志而奉斎礼吾常石仁鎭里弖可令遂領民安穏之宿願者田麿承之随神託奉造進神宮千件地云々。
弘和三年古宮より現社地に移轉再建す。神殿梁下の文に曰く、弘和三年亥八月移此地再建以下文字不明。
特殊祭事、杖楽願成就祭人皇七十六代近衛帝之御宇之壽永年間、鎮西八郎為朝武門の技、即ち杖、神通鎌四十八手の技を正八幡の社前に奏せりと。以後平成の現在に至る迄毎年例祭日五月三日四日杖楽殿に於いて奏技を行い、武を尊ぶ精神修行につとむ。尚往古鎮西八郎為朝正八幡宮崇敬の餘り水田二町を御供田として献納せしも天正の頃豊臣秀吉悉く神領を没収せり。今尚神供田と称する田地あり。即是なりと云伝ふ。
例祭日五月三日四日。
杖秘極巻一巻(神通鎌等四十八手の事を記す)。
神通鎌一枚、鎮西八郎為朝寄進。神殿梁下彫刻物弘和三年亥八月移転此地に再建と記せり。
(平成祭データ)
県指定無形民俗文化財
川崎の杖楽
田川郡川崎町大字田原正八幡神社
昭和三十一年七月二十八日指定
鎮西八郎為朝が久寿元年(一一五四年)豊後臼杵から田川郡勾金の南大原に移り鎮西原城を築き豊前の国に君臨した当時、正八幡宮の御神徳に感じ杖、神通鎌四十八手の技を正八幡宮の社前に奉納し、武運長久と源家の興隆を祈念したのが田原正八幡宮杖楽の起源であるという。
毎年の神幸祭に当り、お庭借り神事の後男子数十名が白鉢巻、白たすきの勇壮な姿で四十八手を次々に奉納する。
神通鎌は久安年間(*註)に鎮西八郎の寄進したものという。
杖楽殿は鎮西八郎が武門の技を神前に奉納した時建立したもので、その後幾変遷があって今日に至るものである。
昭和五十五年十月吉日
福岡県教育委員会
川崎町教育委員会
杖楽 保存会
(境内案内板より)
獅子楽の由来
正八幡宮は人皇第三十代敏達天皇御即位元年壬辰の年、田原麻瑠の子孫田麿、宇佐宮に詣で御神霊を勧請し奉りて田原村の公事山に御社を創建し斉き祀る。これ正八幡宮のはじめ也。
其の後数百年を経て鎮西八郎為朝当地に下りし際此の地に八幡宮の鎮座ましますを知り深く御神徳を尊び御神威に感じ奉りて武運長久を祈願して源氏の再興をはかりしを知り八幡宮を当地に移転、再営の際境内に繁茂する楠の大木を切りこれにて獅子頭一対を作り祭事に奉納し舞楽の笛太鼓等と共に一体として村の繁栄と武運長久、五穀豊饒を祈願して獅子楽を奉納し信奉の中心として伝えられて居ります。
昭和五十五年十月吉日
田原正八幡宮
獅子楽保存会
(境内案内板より) |