鎮座地 |
〒811-0323 福岡県福岡市東区大字志賀島877 旧筑前国 糟屋郡 |
電話 |
092-603-6501 |
旧社格等 |
官幣小社
式内社 筑前國糟屋郡 志加海神社3座(並名神大)
現別表神社 |
御祭神 |
・底津綿津見神
・仲津綿津見神
・表津綿津見神
(配祀)
・玉依姫命
・神功皇后
・應神天皇 |
御由緒 |
志賀海神社略記
古事記上巻に「此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也阿曇連者其綿津見神子宇都志日金拆命之子孫也」旧事記に「底津少童命・仲津少童命・表津少童命(綿津見神の別号)此三神者阿曇連等所祭筑紫斯香神也」即ち神代の昔伊弉奈岐大神筑紫の日向の橘の小戸の檍原に禊祓ひ給ひ身心の清浄に帰り給ひし時生れ給ひし御神にして海神の総本社として鴻大無辺の神護を垂れ給ひ諸々の海の幸を知食し給ふ故に神功皇后御征韓に際しては神裔阿曇連磯良丸命をして舟師を導かしめ給ひ又元寇の役その他国家非常に際し赫々たる御神威を顕はし給へり、さればしばしば勅使の奉幣あり延喜の御代には名神大社に列せられ或は封戸奉り神階を賜ふ等上下の尊崇深厚を極め神領等も頗る多く、中津宮、沖津宮と共に三社別々に鎮祭せられ結構壮麗を極めたりしが其後久しく兵乱打続き神領等も次第に失せびて漸次衰微するに到れり然るに豊臣秀吉九州出陣に際し朱印地の寄進ありたる外、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等諸将相についで社殿の造営神領の寄進等ありて凡そ面目を改めるも尚到底昔日の比にあらず、明治五年僅かに村社に指定せられたる状態なりしが大正十五年官幣小社に昇格仰出されたり。
(平成祭データ)
御祭神
左殿 仲津綿津神(なかつわたつみのかみ) (相殿、神功皇后・じんぐうこうごう)
中殿 底津綿津見神(そこつわたつみのかみ) (相殿、玉依姫命・たまよりひめのみこと)
右殿 表津綿津見神(うはつわたつみのかみ) (相殿、応神天皇・おうじんてんのう)
御由緒
神代より「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、玄海灘に臨む海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、厚く信仰されている志賀海神社は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)によって御出生された綿津見三神を奉祭している。 御祭神「綿津見三神」は海の底、中、表を守り給う海の主宰神として、海上交通の安全は固より塩・魚介類といった海産物の御恵をもたらす神として篤く信仰されている。また禊祓の神として不浄を祓い清め、諸々の災厄を祓除する御神威を顕している。さらに水と塩(潮)を支配し、潮の満ち干きによって人の生死をも司るとされることから人の命や生活の吉凶をも左右するとされている。
古来、この綿津見三神を奉斎してきたのが神裔「阿曇族」である。この阿曇族は志賀島を海洋民族の一大拠点とし、国内・大陸との交易を行い経済的・文化的に高い氏族であった。
その交易の足跡が長野県安曇野市穂高、対馬、兵庫、石川県志賀町、滋賀県安曇川、愛知県渥美半島など「しか」「あつみ」と称した地名に多く見られる。
当神社の創建は明らかではないが、往古より勝馬に表津宮・仲津宮・沖津宮の三社で綿津見三神が奉斎されていた。凡そ1800年前、神功皇后の三韓出兵に際し舟師を率い御舟を導き守り給うた安曇磯良丸をして表津宮を当地の勝山の麓に遷座したとも伝えられている。
『三代実録』では貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式』には明神大社に列せられ、神仏習合の時代では金剛山吉祥時と称されていた。中世、元寇の役など国家の非常に際しては赫々たる御神威を顕し給い、尊崇も深厚を極め社殿は壮麗で末社三七五社、社領五十石、奉仕する者百数十名と繁栄した。
兵乱の世に衰徴したが豊臣秀吉の寄進や大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等諸将の寄進もあり、今から約350年前現在の社殿が再興、大正15年(1926)官幣小社に昇格、平成16年(2004)には平成の大改修を厳修し、今尚海の守護神、禊祓の神として、また鹿島立(志賀島立)として海陸空の旅行を守護されるため、浦参宮或は島参宮と称され篤く信仰されている。
神社を中心に志賀島では、御祭神が禊祓の神であるが故に、神事に携わる時や参詣の折は斎戒が厳しく守り続けられている。また白砂青松の海ノ中道を有し、マテバシイの老樹鬱蒼とした古代の森と神跡を守り続けている。この姿こそ古代から連綿と続く安曇族の姿である。
「ちはやぶる金之三崎を過ぎぬとも吾は忘れじ牝鹿(しか)の須売神(すめがみ)」(万葉集巻七)
「名にし負ふ龍の都のあととめて波をわけゆく海の中道」 (細川幽斎)
(神社パンフレット「志賀海神社略記」より)
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参拝月日 |
07/29/2006 |