鮭神社(さけ)       HOME blog

鎮座地 〒820-0304 福岡県嘉麻市大字大隈542 旧筑前国 嘉麻郡  
電話  
旧社格等  村社  
御祭神  ・葺不合尊
 ・火火出見尊
 ・豐玉姫命
御由緒  上大隈鎮座
  鮭神社(鱖大明神)御由来記
祭神 彦火々出見尊 鸕鷀草葺不合尊 豊玉姫尊
古事記中巻=神武天皇は兄五瀬命と高千穂宮で相談なされて、天下を治めるのによい所を求めて東をめざし
 て日向を出発なされた。豊後豊前をすぎて筑紫の岡田宮に一年滞在されたとある。
その時、途中で天皇は躬親しく神籬(ヒモロギ)を設けて高木の神を當村岩岳山の尾上に祭り給ふとある。詳細 は別書「社傳」にあり。

続日本紀三十巻=人皇第四十九代光仁天皇宝亀元年(西暦七七0年)筑前國嘉摩郡人財部宇代(ウマシロ)なる 者、神託に依り初めて社殿を造営し奉る。社傳に第四十八代称徳天皇治五年神護景雲三年とあるも同じ年で今より壹千貮百○五年前の事。

 系図
         大山津見神ーカミアダツ姫ー|
                    |
天照大神 = 天忍穂耳命 = 瓊瓊杵尊 = 彦火々出見尊 = 葺不合尊 =神武天皇 
(伊勢大神宮)(英彦山神宮) (霧島神宮) (鹿児島神宮) |(鵜戸神宮)|
                      別名 山幸彦  |       | 
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                       豊玉姫命ーー|      |
                    海神              |      
                       タマヨリ姫命ーーーーーーーーーー

筑前國続風土記拾遺=鮭大明神祭礼の九月廿三日此社に奇事あり毎年鱖魚が社辺の川に上り耒ることありといぶかしきに似たり長さ二、三尺の鮭が社辺まで上り耒るがこれ海神豊玉姫は御子葺不合尊の許へ」御使として遺し玉ふものであり上大隈から遠賀川の河口芦屋までは十二里余この間百以上のゐせき有恙無事に上り耒ればその年は豊作でありこれを途中で捕えて食べれば災禍に遇ふと云い盲目になるとか家が絶える等の云い傳えも廣く信じられていて鮭を神の使いとする村の氏子の人々は今だに鮭は喰べない習慣が残ってゐる
鮭は神の使いと崇められてゐるから

筑前國続風土記(貝原益軒先生)=鱖大明神、大隈村の産霊なり 霜月十三日祭あり鱖魚を神に崇むといふ、これ古にいわゆる鮑君神にやいぶかし。鮑君神とは漢籍風俗通に鯛陽の人鮑魚を神として治病求福に効験ありし事を誌す。註 これとは大いに異なる

社地に石碑あり 高五尺 中八寸 
 説曰為海神使毎年鮭耒此處童子殺之爰大隈駅福澤氏當社獻之産人欲残末世建験矣
  明和元年甲申天仲冬吉日(註明和元年西暦一七六四後桜園天皇)今より貮百拾貮年前

福岡県地理全誌
 1.明治七年(今より一〇一年前)甲戌春ニモ両度上リ耒リ拾ヒテ神前に進メ社地ニ埋メタリ
 2.俎石(マナイタイシ)=本村民家の間にあり方九尺高五尺許あり鮭神社の祭日には鮭下流より上り耒りて此石にて拝礼す其鱗石面に見る故に俎石の名あり又嘉摩川の辺田間にも俎石とてあり方三尺あり

福岡県神社誌=鮭神社嘉穂郡大隈町大字大隈字藤木 祭神葺不合尊 火火出見命 豊玉姫命 由緒不詳
毎年十一月十三日は必ず鮭魚遡り耒る。けだし龍神の使なりと言う故に献鮭祭と称す魚の中一つたおるればまた尋ねて来る故にその数計り難く海汀を」距る十余里にして水源まで僅か二里に過ぎず
大正十四年四月十六日「村社」に列せらる 例祭日十月十日
神饌幣帛両供進指定大正十四年四月三十日
境内坪数三百三十六坪 氏子區域及戸数 大隈区一円八十戸
境内神社 貴船神社、大神社、稲荷社、五穀神社、軻遇突智神社、高木神社、天神社

附記
一、鮭は北海道か東北地方で生長する魚で南方九州にしかも嘉摩川に遡り耒るとは不思議な事で神の使と
  して崇めるのも尤もだと思ひます
二、海神の使となって川を上り耒り氏神様を俎石から拝礼した鮭を埋める所を鮭塚と云ふ昔は神社の絵に
  は拝殿の左方にあるも現在は右方にある(弐百拾弐年前の石碑から)
三、私共氏子は鮭を捕まえた人々が持参してくれたら神前に御供して神官を呼び祝詞を上げて頂いて鮭塚
  へ埋める習慣になってゐた
四、それが戦時中下流で石炭を水洗した等の為河水が極度に汚濁され戦后は農薬で公害と云ふ悪條件の処
  に沢山のいせきは全部コンクリートで固められて鮭が遡り耒るには大変妨害となってゐるので嘆いて
  ゐた所最近流水だけは漸く昔の清流になり今では神の使が昔の様に無事上り耒る事を念願してゐます
五、最近では大東亜戦の初め頃まで昭和十年頃まで神の使は遡り耒たと思ひます
六、祭礼の当元は上下二組に二軒づつで座を持って御馳走には前の河をほして川魚を取り特にイモガラと
  ドチ゛ヨウ汁つくる御平には大根の最太なるもので縦割にすれば鮭の姿を形取ったものができて赤い
  コショウをつけて目とする。祭終了後頂いて帰り自宅の神棚に供えました。尚大盛のお飯をつける。
  せめん飯と呼ばれ喰べ終るのに仲々責められるやうに苦しかった。酒は飲み放だい。
七、昔云ひ傳えるには鮭様は此界隈では最も有名な勢力ある神様であったのでその雄大な社殿は一時焼き
  払はれたと云います。多分戦国時代か秀吉の九州拓代か
八、鮭と鱒とは兄弟の様な魚でよく似てゐる、中益下益は鱒に通ずるが當社の鮭(上大隈)と何等かの深
  い因縁があるのではないか
九、終戦后日本の各地の大学講師や学生又は郷土史家や研究家等の来訪絶えず昭和五十年秋には「筑豊の
  自然と風土を訪ねて」福岡市積文館外九社と西日本新聞社後援に依る十、十一月日曜毎に貸切バスに
  て団体参拝有
  十一月祭日には大阪KBCテレビ全國放送映写の為耒社有 11日10時半~11時放送
十、新年一月には初めて全國的に有名になりました。放送有

爰に至りて神恩に感謝し謹んで御粗末ながら奉納さして頂きます。 

献鮭祭を盛大にし龍宮神使鮭招福 奉祈

昭和五十一年閏年丙辰西暦千九百七十六年元旦
 氏子代表 藍綬褒章 勲五等 双光旭日章 XX X 七十一歳
當時神官 XXXX 區長 XXXX代理 XX X 会計 XXXX
神社總代 XX X、XXXX、XXXX、嘉穂町議 XX X

(拝殿内 掲示板より) 原文のまま、氏名は伏字にしています。 
参拝月日  10/20/2007
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 参道入口の鳥居                           拝殿