能褒野神社(のぼの) HOME blog

鎮座地 〒519-0213 三重県亀山市田村町1409 旧伊勢国 鈴鹿郡   
電話  0595-85-1533
旧社格等  県社
御祭神  ・日本武尊
(配祀)
 ・弟橘姫命
 ・建見兒王
御由緒   能褒野神社御由緒
鎮座地 亀山市田村町女ケ坂一〇四九番地
祭神  日本武尊
      配祀  弟橘姫命 (元小天宮祭神)
          建貝児王「建見児王」(元武内県主神社祭神)
祭日  春祭 四月八日  例祭 十月八日
                               
由緒  
 日本武尊東伐の帰途ここ能褒野に薨じ、天皇深くこれを嘆かれ天皇の礼を以て葬られた。
延喜諸陵式(九〇四)に能褒野墓 東西二町・南北二町・守戸三烟とあるが、しかし中世以降戦乱が相
次ぎ、尊の御陵墓も荒廃し定かでなくなり、白鳥塚(加佐登)武備塚(長沢)等諸説が出たが明治十二
年十月内務省は、女ケ坂の王塚を尊の御墓と確定し、守部二人を常置された。
 明治十六年神宮祭主久邇宮朝彦親王により、社号を能褒野神社と選定、翌年創立が許可された。
同二十八年十月八日神職伊藤左門と惣代が、京都の賀陽宮邦憲王より御霊代を拝戴し鎮座されることと
なった。
 明治四十一年延喜式内県主神社・同那久志里神社・同志婆加支神社・小天宮社・田守神社・八嶋神社
外四十余社を合祀した。
 大正十三年能褒野保勝会組織、同十四年県社に昇格、十月七宮家より「御鏡餅料」を戴き、知事以下
二百余名参列のもと祭儀が行われた。同十五年保勝会が亀山駅前に大鳥居を建設、久邇宮邦彦王御染筆
の「能褒野神社」 の扇額を掲げた。
 昭和二十一年国家神道廃止となり、同二十七年十二月宗教法人となった。

日本武尊略歴
 武尊は第十二代景行天皇の第二皇子に生まれ、幼名は小確命身長高く容姿端正、力また強く、十六才
にして天皇の命を受け西征、熊襲の川上のタケルを討つ。
 この時より日本武尊と称す。暫くして、また命により東夷を討つため吉備武彦・大伴武日連等を従え
東国に向かう。途次伊勢神宮を拝し叔母倭姫命より剣と袋を授けられる。それより亀山に至り忍山宿禰
の娘、弟橘媛を伴いて駿河に至る。
 処の賊鹿狩りと欺き火を放つが、尊は剣で草を狩り向火を放ち、賊を滅ぼす。これより剣を草薙剣、
処を焼津と言う。更に相模より上総に進むため馳水の海を渡る。
 海路中波たかく船進まず、時に弟橘媛は尊の身代わりとして海中に身を沈められた。荒波自ら静まり
船を進めることを得た。

 さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて間ひし君はも

木更津より陸奥・甲斐・信濃を経て尾張の宮簀媛を尋ね、剣を置いて伊吹の賊討とうとしたが、心神喪
失し里に下る。(醒井)力衰え杖を頼りに進まれたが、内部村付近で「わが足三重のまがりなす」と嘆
かれた。

 能煩野に至り、望郷の念より
  倭は国のまほろば たたなづく青垣 山こもれる 倭しうるはし

と歌われ、三十才にしてお亡くなりになった。天皇深く悲しみ能褒野に陵墓をお作らせになった。后・
皇子等はこの地に来て               ヽ、
  な附きの 田の稲がらに 違ひもとろふ ところづら
と歌われた。時に尊は八ひろの白鳥と化して、飛び立たれた。
  浅小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
この歌は、御涙として今も天皇の大葬の時に歌われている。
 白鳥はそれより大和の琴弾原と河内の羽曳野に留まり、ここを白鳥三陵という。

能褒能御墓 (王塚)
 総面積一九、三三七平方㍍ 全長八九㍍ 前方部四〇㍍ 高さ六、一㍍
 後円部 径五四㍍ 高さ九、五㍍
  鰭付朝顔形円筒埴輪を有する、古制の前方後円墳である。その他 能褒野古墳群として十六の塚が
分布している。
 (神社パンフレット「能褒野神社 御由緒」より)
参拝月日  04/02/2009

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境内入口の鳥居 拝殿