名和神社(なわ) HOME blog

鎮座地 〒689-3212 鳥取県西伯郡大山町名和556 旧伯耆国 汗入郡  
電話  0859-54-2260
旧社格等  別格官幣社 (現別表神社)
御祭神  ・名和長年
(配祀)
 ・名和一族戰沒將士四十二柱 
御由緒  名和神社畧記
一、御祭神
 伯耆守 従一位 源朝臣名和長年 および御一族以下戦歿将士四二柱
 昭和十年五月八日 長年公御殉節六百年に当り、従一位に追敍された。
一、御由緒
 長年公はじめの御名は長高。村上天皇の後裔。天皇の第七皇子具平親王の長子師房にはじめて源の姓を賜った。顕房、雅兼以下十四代を経て長年公まで代々伊勢に住み、のち但馬に移られたが公の祖父行明が承久の役に官軍についたため北条氏に領地を奪われて伯耆に下り汗入郡長田村に住み、公の父行高が名和の庄に移ったので名和を氏とした。
 元弘二年三月、暴逆北条高時が後醍醐天皇を隠岐へ遷し奉り、加えて判官清高に御生命を落し奉れと密命した。これをお聞きになった帝は公の弟泰長を召して、兄長高と義兵を挙げ自分を護って要害の地に遷せと仰せられた。そこで泰長は諸準備のため急ぎ出雲に下ったが事破れて自害した。翌三年閏二月二十三日帝はひそかに行宮を出て千波の港から漁船で逃れ、二十八日伯耆の港に入り長高の邸に勅使をたてて救いを乞われた。長高は感激して直ちに一族郎党をかり集め、帝を船上山に迎え奉った。急の事とて自家の糧米五千石を山上に運ばせ、残りを焼き捨てた。賊軍に利用されるのを恐れたのである。翌二十九日賊軍は追手、搦手の二手に分かれて山を攻めたが官軍の善戦に攻めあぐねているうちに近郷近国の武士もはせ参じて賊軍を追い払った。帝は殊の外喜ばれて長高を左衛門尉に補し名も長年と改めさせられ、三月三日には伯耆守に任じて本国を賜った。また十五日夜、公をお召しになり、自分が今度の難を逃れ得たのは海上であり、しかもこの地は船上山、自分を船にたとえれば汝は水「三心相応の謂れあり船を以て吉事とす」とお言葉があり、家の紋章を改めよと帆掛船の紋章を賜い、併せて御文と
 忘れめやよるべも波の荒磯を
    みふねのうえにとめしこころを
の御歌を下された。
 帝は伯耆御着船以来八十五日の間船上山におとどまりになっていたが京都の騒乱もしずまったので、五月二十五日船上山をお立ちになって山陰道を東へ、京都に遷幸されたが道中は公の一族がお守護申し上げた。公は八月三日、楠木正成とともに決断所議定官に任ぜられた。
 建武元年正月、公は因幡伯耆の守護に任ぜられ、従四位下に敍せられたが、嫡男義高も正五位上に敍せられて左京大進倹非違使に任ぜられた。
 同二年藤原公宗が北条の残党と謀反を企てたが、公は勅命を受けてこれを滅ぼし、その十月には足利尊氏が反乱を起こしたので、公は楠木正成と力を合わせて帝をお守りした。
 延元元年正月、尊氏が京に攻め入った。公が兵を集めて勢多に着いたとき、すでに大渡山崎の官軍は敗れて帝を延暦寺に遷し奉っていた。公はこれを聞きそのまま帝のもとに落ち延びるのを潔しとせず、群敵を追い散らしながら京へ入り、内裏を拝して落涙にしばしくれたのち陽明門から引き返して帝のもとに戻った。正月二十七日公は正成、親光等と二千余騎の小勢で、賊将上杉、畠山等の五万騎を敗退させた。尊氏も敗れて鎮西に逃げたが五月再び来襲、官軍は戦い不利で公の執事内河真信と内河右員、右弘等が討ち死にした。その後官軍の将脇屋、土居、得能、仁科等とともに賊将吉良、石堂、仁木等を破り、六月八日官軍は再び京に入った。これをみた京童が「三木一草(楠木 伯耆 結木 千種)がわずかに一木だけになった」とはやしたてた。公は、自分一人が生き残ったのは恥ずかしい。この戦いが不利なら自分は一人だけでも戦い抜き討ち死にしてもよいと決意、六条大宮から進み賊軍二十万騎と戦い終に味方の諸将士と離れ、今は死すべき時だと一族郎党と群がる敵を懸散し追い崩したが刀折れ力つき身に数多の創をうけ延元元年六月晦日遂に自刃して果てた。一族郎党も討たれあるいは自害してみな殉死したが、この戦いに不参の一族のうち四男の高光は西坂本に、高国は恒良親王に従って越前坂南で戦って討ち死に、義高の嫡男顕長と従弟顕興は西征大将軍懐良親王の御供をして肥後八代に下り、尽忠の誠を尽くした。子孫は肥後或は筑後に住して十数代を経、終には筑後柳川藩立花氏に仕え、家系は今日まで続いている。
一、御鎮座の由来と土地の縁故
 承応、明暦のころ名和村地内の名和氏邸跡といわれた所に、この地方の有志が公の遺徳を追慕するが余り小さな祠を建てた。その後因伯両国が池田藩となったが、藩祖池田光仲は公を崇敬して延宝五年その地の東方、日吉坂にあった山王権現の社殿を新築拡張して併せ祭り、名和庄の長者であるところから氏殿権現と名付けた。(維新後権現を改めて神社と称す)明治六年には県社となり、同十一年には別格官幣社に列せられた。同時に地方の有志は、曽って名和氏の米倉のあった長者原に、(元弘三年義挙の時倉稟を焼捨たる所にして今も地底より焦米古釘等夥しく出づ)社を遷すことを請願して許しを得、その敷地を寄付、やがて本殿ほか付属建物の造営も終わったので、同十六年に現在の所に遷し奉った。当時は辺地のこととて崇敬者の参拝もなかなか苦労だったが、その後交通も開けて、年とともに参拝者の数も増え、いまでは数万を数えるほどになり、国鉄でも名和駅を〕常設してその便を図っている。年間社頭は賑盛でる。
 (神社パンフレット「名和神社略記」より) 
参拝月日  10/23/2008

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一の鳥居 拝殿