御由緒 |
御祭神
●主祭神
鏡作神(かがみつくりのかみ)
鏡作部の祖神石凝姥神の御神業を称えた御名
●相殿神
石凝姥神(いしこりどめのかみ)
天孫降臨の五部神 八咫鏡を造りませる神
天糠戸神(あめのぬかどのかみ)
石凝姥神の父神
中山神社 沿革
文武天皇慶雲四年(七〇七)の創祀。貞観六年(八六四)官社に列し、延喜式では美作国唯一の名神大社で此の国の一宮とされ、永保元年(一〇八一)には正一位 の神階を授かる。
平安時代の代表的説話である「今昔物語」には当社の猿神伝説があり、鎌倉時代の後白河法皇の御撰にかかる「梁塵秘抄」では関西に於ける大社として安芸の厳島、備中の吉備津と共に肩を並べている。
国家非常時(元寇など)には勅命により特に全国七ヶ国の一宮(武蔵・上野・伊豆・駿河・若狭・美作・ 肥後)を選び、国家安穏を祈願せしめ当社も其の中に選ばれて祭祀を厳修したとされる。
建武中興破れて約四百年間は、美作国中戦乱の巻と化し、永正八年(一五一一)と天文二年(一五三三) の両度に祝融の厄に遭い宝物・古文書等悉く焼失したが、永禄二年(一五五九)に至り、出雲国尼子晴久が戦捷報賛の為、社殿を再建し歴代藩主の崇敬厚く、「一宮さま」と親しまれ、明治四年(一八七一)六月には、国幣中社に列格す。
現在も、鍛金・冶工・採鐵等の守護神、農耕・牛馬の守護神として広く崇敬されている。
社殿
現社殿は、永禄二年(一五五九)出雲国富田城々主尼子晴久戦捷報賛の為、十八年の歳月をかけ、再建 されたもの。
本殿は単層入母屋造妻入・桧皮葺にて間口五・五間、 奥行五・五間、建坪約四一・五坪の宏壮雄大なもの で大正三年国指定重要文化財。
これに巾二・五間、入三間の向拝を附し釣殿を介し、 入母屋造平入・桧皮葺の拝殿へと連ねた形式を他 地方に例のないことから『中山造』と呼び美作の多く の神社の模範とされた。
末社
総神殿(そうしんでん)
山上山下一二〇社を合祀。寛保二年再建。御手洗川手前にあったものを大正二年移築。幸宮・宇都宮 ・小原神社をも合祀。
国司社(くにししゃ)
地主神として大国主命を祀る。社殿横には「鉾立石」があり国難の際、 本殿に移し、祈念された。
御先社(みさきしゃ)
中山の神の祖神を祀る。中山の神の側にあって供をするという義で、一般には稲荷神として信仰されて いる。
猿神社(さるじんじゃ)
今昔物語二六巻にみえる「中山の猿」 の霊を祀るとされ、現在、猿田彦神として祀られる。牛馬の安産 守護の神と信仰を受け、今も尚、ぬいぐるみの小猿を奉納する風習が残る。
猿神社々前、多くの願主によって奉納された、猿のぬいぐるみがある。
(神社パンフレットより抜粋) |