御由緒 |
祭神と由緒
このお社はもと石峰稲荷明神といって、丘の頂きに大きな神石があり、巌の下には洞穴もあって白狐が住むといわれ、牛馬の加護はもとより、万能の神様として霊験あらたかなお社でありました。
たまたま明治三年上荘内郷の地頭となった三島通庸が一大修理を加えて社殿を改築し、祭神も豊受姫神、大年神と定め、また四方からの参道を便利にして庄内郷の総鎮守としました。
その後参道には町の篤志家によってよしの桜が植えられ、花どきにもなれば一大花のトンネルとなり、西日本一を誇るさくらの名所と呼ばれるようになりました。お社の例祭や花どきには祭神の御神徳と花の美しさに魅せられれた善男善女が踵を接して足の踏み場もないほどにぎわいを呈します。
ところが年を経て鳥居や付属の建物も古くなり、改築の要に迫られていましたが、氏子はもとよりみなさまのご芳志によって神域がみちがえるようにきれいに整い、神の威光がいやましに高まりました。これからいよいよ神様のご加護を期待する善男善女が日増しにふえることでしょう。
(平成祭データ)
母智丘神社と陰陽石のご紹介
大昔のことは明確でありませんが、母智丘神社は徳川時代の中頃まで稲荷石と、ほら穴が知られておりその後神社ができたものであります。
明治三年十月当時上荘内郷(現在都城市庄内町)におりました地頭三島通庸(みちつね)が母智丘に参詣し、社殿が荒れはてているのをみて、神社再興をはかったものであり明治三十三年に火災で全焼しましたが郡内有志の力で明治三十六年再築されました。
ご神体は豊受姫神大年神で昭和三十一年神社制度の改変以前は県社でありました。
この丘に散在する巨石群は火山の噴出による赤ボラで地中に埋っていたものでありますが母智丘神社再興工事の時に発掘されました。
その一つに世にもめずらしい陰陽石があります。陰石は周囲19.3メートル高さ1.7メートル表面に長さ1.2メートル深さ0.5メートルのくぼみがあり、陽石は周囲17.3メートル高さ3.3メートルと壮大でシンボルにふさわしい形状を整えております。
この一帯は、石器時代および古墳時代を通じて人類が住居した遺跡があり、この時代が
どんな宗教的思想を持ち生活していたかわかりませんが長い年月と自然石が生んだ稀にみる逸品であり古くからこの陰石に祈願水をかけると縁結び、安産、商売繁盛、無病息災、病気全快等、霊験あらたかで今日なお人々の心をひきつけております。
母智丘神社
都城観光協会
(境内案内板より)
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