宮崎神宮(みやざきじんぐう) HOME blog

鎮座地 〒880-0053 宮崎県宮崎市神宮2丁目4-1 旧日向国 宮崎郡   
電話  0985-27-4004
旧社格等  官幣大社(現別表神社)
御祭神  ・神日本磐余彦天皇
(配祀)
 ・鸕鷀草葺不合尊
 ・玉依姫命
御由緒  宮崎神宮略記
御祭神 神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)  
     (神武天皇)じんむてんのう
相殿 左 鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずあえずのみこと)(御神父君)
   右 玉依姫命(たまよりひめのみこと)(御母君)            
【神武天皇の御偉業】     
神武天皇は大御名(おおみな)を神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)、御幼名を狭野命(さぬのみこと)と申し上げました。天照大御神から五代目の御孫に当らせられます。宮崎神宮の別宮狭野神社の御鎮座地宮崎県西諸県郡高原町狭野(にしもろかたぐんたかはるちょうさの)は御降誕の霊跡と伝えられて居リます。天皇は生まれつき御聡明にわたらせられ、御気性のしっかりした御方で御齢十五の時皇太子(ひつぎのみこ)に御立ち遊ばされ、宮崎に都せられて天下(あめのした)を知食(しろしめ)されたのであります。
 しかし其の頃はまだ大八州(おおやしま)の全土に亘って皇威(こうい)が輝くと云うわけでなく 遠国(とおいくに)にはまだまだ皇化(こうか)に俗しない地方が沢山あったのであります。
 天皇は御父祖の意志を継ぎ天壌無窮の神勅(みことのり)を承けて天下の萬民が恩恵(おんけい)を蒙る様にと常に御考えになり、四十五歳の御時方針を御定めになり、諸皇兄皇子と共に大伴、物部の将兵を始め八十伴緒(やそとものを)の郡臣を御統率になって大八州の中央に都を遷されようと遊ばし、紀元前七年十月五日に此の宮崎の地を御出立になり御東征の途に上がられ、数々の苦難の末、丁度日向を御進発になって七年目の正月朔日、畝傍(うねぴ)の橿原(かしはら)に宮殿を建てさせられ、八紘(あめのした)を掩(おほ)ひて宇(いえ)と為さむと仰せられて第一代の天皇の御位に御即き遊ばされここに我か国の建国の基は目出度成就せられたのであります。
【本宮の創建】                               .
 社伝によれば、神武天皇の皇子神八井耳命(かむやいみみのみこと)の御子建磐龍命(たけいはたつのみこと)(阿蘇神社の御祭神)が筑紫の鎮守となられ、此の地即ち神武天皇の都せられし跡に天皇の神霊を鎮祭し給ふと。降って第十代崇神(すじん)天皇の御宇(おんとき)又第十二代景行天皇の熊襲御征討(くまそごせいとう)の節社殿の御造営があり、尋いで第十五代応神天皇の御宇、日向国造老男命(ひゆうがのくにのみやつこ)が修造鎮祭せられた旨が旧記に伝えて在ります。現在の社殿は、明治四十年に建て替えられたもので日向の名材狭野杉を用い白木で銅板葺きの神明造りであります。
【旧称号と旧社格】
 当神官は、古来神武天皇宮又は神武天皇社と申上げましたので、今も此の地方の人は神武様と普通(つねに)申上げて居ります。明治の御代となって初め宮崎神社となり後宮崎宮と改称せられたのであります。
 明治  六年 五月 県社に列せられ宮崎神社と改称。
 明治  八年 八月 国幣申杜に昇格。
 明治 十一年 五月 宮崎宮と改称。
 明治 十八年 四月 官幣大社に昇格。
 大正 一一年 七月 宮崎神宮と改称。
 昭和二十一年 二月 神社制度の変革により社格が廃止される。
【別宮と摂末社】
狭野神社(宮崎神宮別官) 西諸県郡高原町狭野鎮座。狭野命(神武天皇)を祀る。
 神武天皇御降誕の霊跡。
 大正四年六月一日に当神宮の別宮として指定せられた。 
皇宮神社(こうぐうじんじゃ)(摂社)
 宮崎市下北方町鎮座。神武天皇を祀る。相殿に吾平津姫命(あひらつひめのみこと)、
 手研耳命(たぎしみみのみこと)を祀る。
 天皇の宮の跡(元宮)と伝う。第六十一回伊勢神宮式年遷宮の旧社殿の御下賜材をもって昭和五十一年改築された。
五所稲荷神社(末社)
 境内内に鎮座。保食神(うけもちのかみ)、字迦魂(うかのみたま)を祀る。
 下北方「花ケ島等に鎮座の五つの神社の祭神を合祀したものである。
 (神社パンフレットより)

  宮崎神宮略記
 当神宮は神武天皇(神日本磐余彦尊)を主祭神とし相殿には鸕鷀草葺不合尊(御父君)と玉依姫命(御母君)が奉祭されている。
 天皇は四十五歳の御時、天下統治に応しい地を求めて日向国を御出発、数々の苦難の末に大和地方を平定され第一代の天皇として即位された。
 後に皇子神八井耳命(かむやいみみのみこと)の御子建磐龍命(たけいわたつのみこと)により、天皇の御神霊が当地(皇居高千穂宮の霊地)に鎮祭され今日に至っている。
 古来より神武天皇宮或は神武天皇廟と称されて歴代領主の尊崇篤く、明治維新に際し神武創業の昔に復えるという事で、特に注目、重視された。
 明治十八年、管幣大社に昇格、社名も同十一年宮崎神社から宮崎宮と改称され、大正二年に現在の宮崎神宮となった。
 その間の明治三十一年、神武天皇御降誕大祭会(総裁公爵二条基弘、会長伯爵島津忠亮、幹事男爵高木兼寛)が発足し、社殿の造営境内地拡張等の大工事が進められた。
 特に明治天皇には御内幣金を下賜あらせられ、これを契機に全国的規模の募金活動が展開された。
 同四十年に竣工、遷座奉告祭が斎行され、さらに同年十一月嘉仁親王殿下(大正天皇)の御参拝を給わった。以後皇族方の御参拝が続いた。
 殊に昭和天皇には皇太子裕仁親王殿下の御時、大正9年を始めとして六度の御参拝を給わった。
又皇太后陛下には大正十二年、久邇宮良子女王殿下として御成婚御奉告を始めとして陛下と共に二度の御参拝を給わっている。
 (境内由緒掲示板より)
参拝月日  11/25/2008



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境内入口の鳥居 社殿全景