加佐登神社(かさど) HOME blog

鎮座地 〒513-0003 三重県鈴鹿市加佐登町2012 旧伊勢国 鈴鹿郡   
電話  059-378-0951
旧社格等  村社
御祭神  ・日本武尊
(合祀)
 ・天照大御神 ・豐受大神 ・火之迦具土神 ・氣吹土主神 ・速玉之男命 ・天羽槌雄神 ・大國主命
 ・伊邪那美神 ・伊邪那岐神 ・大雀命 ・建速須佐之男命 ・菅原道眞 ・品田和氣命 ・予母都事解之男神
 ・息長帶比賣命 ・大山津見神
御由緒   御笠殿社由来記 (原文ノマヽ)
 伊勢国鈴鹿郡荘野駅より十町ばかり北なる高宮村という所に、御笠殿とて、日本武尊の御社あり、こは尊の御笠を藏めし所と語りつぎ、また其れよりやゝ離れて、白鳥塚とて同じ尊の御陵あり、この辺おし並て、いにしへ能煩野といひし所にて、かの王の崩御ませる地なる故に御陵あるなり。
 延喜の諸陵式に能褒野墓日本武尊在伊勢国鈴鹿郡とあるはこれなり。なほ其あたりに奉冠塚奉裝塚など云ふもあるは皆かの王の御遺物を納めし所といふは信に然るべし。抑かの王の御よはひいと若くまして倭童男王と申ししほどに、筑紫国なる熊襲たけると云ひし荒えびす討とり玉ひて、倭健男命と御名におひ巫せる御いさをしは更にも申さず、其後に吾妻の国々なる惡き神また射向ひまつる夷どもをみな征伐け給ひて、大倭のみやこに帰り坐せるに近江国の伊吹山なる荒ふる惡神をも取給はむと、其山に登り給ふ、
 爰に某神あしき気吹を起せるに、尊その惡気にあたり坐て、御足こひ腫たりしより悩み給ひて、遂にここにて崩御まししかば、即この所に御陵をつくりて、葬め奉れるに、白鳥となりて飛出給へれば、その御陵をひらき見るに、ただ御衣のみ在れる故にこを白鳥の陵とまうすこと、古事記日本書紀、熱田古縁起などに見えて、我師本居翁の古事伝は更なり、余が古史伝にもくはしく考へ註せるが如し。
 斯くこの御笠を藏めし丘はも、いと古く御社たてゝ、彼の王の御霊を祝ひまつりて、御笠殿とも、御笠社とも申し来り、其里にます熊野神祠の神主鈴本氏なむ、往昔より持いつき奉り来ぬるを、御陵威いち速くおはし坐すは、この御笠はも小縁の物にあらねば、殊に御霊のとどまり坐せる故にや有らむ、然るは古くかくと云ひしは、世の常の笠はさる物にて、軍の時に用ふる兜をもしか言ひしこと、我ふみどもに考へ明せる如くなれば、比御笠と申せるもかならず王の御軍に出給ふごとに冠たまへる御兜ならむと思はるればなり、さて此を御笠社とまうすより、人の躰にいづる腫物、また瘡といふ病をなをし給ふと世にいひ伝へて、其なやみ有る徒から、近き辺の国は更なり、
遠き国々よりもまゐで来て、そのよし願まをすに、いと速なる験ありとぞ。
 この大神のさる病どもを直し給ふと云うこと、心得がたく思ふも有めれど、是なむ尊き神の御恵みにてかの吉野山に鎭座す、水分神とまをすは、雨を掌たもふ神に坐すを、いつの頃よりか唱へ訛りてみこもり明神と申すにつきて、子なき者いのり申せば、孕らしめ給ふ神ぞと世にいひつぎて祈り申すに、必ず其験ある如く、笠をはれ物のことに云ひなして、人の真心に祈り白すによりて、その御使い神などの、大神の幸御霊の御稜威をし賜はりて癒し給ふことゝ思はる。最も奇霊なる御わざなりかし。まして御足を損ひ給ひし御古事のあれは更なり斯ていにし文政六年八月のころ、己みやこりに上れる時しも、その御陵にまいり、御笠社にもまゐでて拝み奉れるに、その辺りの老人どもの言に、他病にても、腫れものの又は瘡など名けて、禰ぎ言する人おほかるに、悉くその験ありといふに、畏けれど己があり経るやまひをし腫物ならねど其病ひに准へて願まをし、此病ども癒なむ後は、人づてにても賽し奉らむと、ねもごろに祈り申して帰れるに其病どもみな癒えたればいかで人伝にても奉賽し奉らむと常に心にかゝる物から、よき伝なくて過しぬるを、今年その社に仕へまつる鈴本信房ぬしなも大江戸に来て、わが教へ子にさへなりて、此御社の由よし書てと請はるゝに、己としごろ信じ奉れる由緒もあれば、かへり白しの御初穂そなへ、なを行末の事の祈りをも頼み、打いさみつつ筆とりて、誰もよく読み、よく聞ゆべく、有のまにまに御由来をかく書しるせるは時は、文政十二年といふ年の九月
    平田篤胤
 (神社パンフレット「加佐登神社由来記」より) 註:文政十二年(1829年)

 三重県指定史跡
   白鳥塚古墳
      昭和12年11月10日指定
      平成18年3月17日追加指定
 この古墳は古くから日本武尊やまとたけるのみこと(倭建命)の墓と言い伝えられ、尊が死後に白鳥となって飛び立ったという伝説にちなみ白鳥塚と呼ばれています。
 以前は東西78m、南北59mの県内最大の円墳とされていましたが、平成16・17年に実施された発掘調査の結果、墳形は東側に造出しを持つ墳長78m帆立貝式の前方後円墳であることが判明しました。
 墳丘には河原石が葺かれ、埴輪がめぐらされています。その埴輪から5世紀前半代に築造されたとみられ、鈴鹿川流域を支配した有力な首長の墳墓と考えられています。
              平成21年3月   鈴鹿市
 (参道入口案内板より)
参拝月日  04/02/2009

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一の鳥居 拝殿