御由緒 |
我が国最古の歴史書たる、古事記・日本書紀に御祭神二柱の大神は、高天原の神々の理想実現のため天沼矛をもって日本の国土開拓に着手された。その最初が淡路の島で、先づ八尋殿と言う御殿を建て、其処で正しい夫婦の道をお定めになり、人々に教育を施し、産業を興して此の島をお治めになった。
更に四国・九州・本州を始め周辺の島を次々と開拓されたのである。此の神業が国生みであり、大神を国生みの神と申し上げるのもその故である。
大神は多くの神々もお生みになったが、その中で一番貴い御子神が天照大御神である。国生の大業を了えられた大神は、此の御子神に後の国治めの大任をお委せになり、独り国生みの初めの淡路へお帰りになって、此の多賀の地で余生を過されやがて御住居の跡が御陵となり、いつしか神社として祀られる様になったのが当神宮で、古事記には淡路の多賀になも坐す、日本書紀には幽宮を淡路の洲に構り、と御鎮座の起源を明かにしている、即ち日本最古のお社である。
(平成祭データ)
伊弉諾神宮略誌
祭神名 主祭神 伊弉諾大神 配祀神 伊弉冉大神
鎮座地 兵庫縣淡路市多賀七四〇番地 (旧淡路国津名郡多賀村)
御社格 旧官幣大社 淡路國一宮 延喜式内名神大社 神格一品
御由緒
古事記(伊勢本)には 「故、其伊邪那岐大御神者、坐淡路之多賀也」(かれ その いざなぎのおほみかみは あはち゛のたがにますなり)
日本書紀には「伊弉諾尊神功既畢霊運當遷是以構幽宮於淡路之洲寂然長隠者矣」(いざなぎのみことかむことすでにおへたまひてあつしれたまふここをもちて かくりみやを あはち゛のくににつくりしづかにながくかくれましき)と、古典に當神宮の創祀を記してゐる。
淡路島神、多賀明神、津名大明神、一宮皇大神などとも別称され、地元では「いっくさん」と尊称されてゐる。
境内地は、神代の昔に初めて夫婦の正道を契り定められ、大八洲の国々を修理固成され、更に萬物萬象と神々を生成された伊弉諾大神が、ご神功を竟へ給ふた後、御子神なる天照皇大御神(お伊勢さま)に譲位され、「淡路の多賀」 の地に御自ら幽宮かくりのみや(終焉の御住居)を構へられたと伝へる故地で「日之少宮」(ひのわかみや)ともいふ。
神門前の神橋が架かる放生の神池は、周濠の遺構といはれてをり、現在のご本殿は、明治初年の大造営にあたって、御陵(みささぎ)周辺を整地し、その真上に移築建立されたものである。
ご皇室の始祖神として朝廷の尊崇厚く、坂上田村麿の末裔(田村家)が下向して祭祀を司るなど、高い格式をもって奉斎された。また、阿波藩主蜂須賀家歴代を始め武門武将の崇敬を受けた。
明治十八年より官幣大社伊弉諾神社、更に、赫々たるご由緒により、昭和二十九年に「神宮」號を宣下され伊弉諾神宮と改称した。
特殊神事
大祭(春祭) 四月二十二日。前日は檀尻の邌込み、当日は絢爛豪華な神輿が檀尻を従へて郡家の濱之宮(攝社)に渡御する神幸式がある。
御粥占祭 一月十五日。前夜から齋行する神秘的な神事で、忌釜に竹筒を納め、夜を徹して粥を炊き上げて、その年の稲作の吉凶を占ふ。
御神徳
ご神功のご事歴は宏大なるご神徳を示されるが、就中、人の壽命を司る「延命長壽」の神として崇められてゐる。放生池には、命乞ひに鯉や亀を放って祈願する慣習があり、今も深く信仰されてゐる。
また、夫婦の正道の始めを掟て定められ、萬物と神々を生成された産霊の祖神として「縁結び」「子授け」の信仰が厚い。殊に、夫婦大桶(県指定天然記念物)は、樹齢九百年を数へ、ご祭神の宿り給ふご神木として信奉され、夫婦円満、子授け、子育て、の霊験あらたかといふ。
境内地 約四三,○○○平方メートル。 氏子数 約千二百戸。
(神社パンフレットより)
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