御由緒 |
本社の御祭神は、宗像大社の三女神です。日本紀によりますと、太古三女神が豊前の宇佐嶋より筑前の宗像へお出ましの折り、道に迷われ烏の先導で日思山へお立寄りになりました。それ故にここを烏尾(からすお)と言います。
三女神は、日思山(ひのうざん)の山頂にある方丈の瑞石をもって御親神様である天照大神様として、お祭りになりました。それより以後この山の事を「日を思う山」と言う意味で日思山と言い伝えられてきました。またの名を日王山とも書きますが、昔は嘉麻郡の一帯を、「日王県」(ひのうあがた)と言いましたので、この名が残っているものと思います。
今では、「日尾免」(ひのめ)と言う地名が日思山を中心に、筑前、豊前の両方に残っております。即ちこれが、日王県嚴嶌神社の起りとなりました。この外、鹿毛馬(かけのうま)地区内には神社につながる古代用語が、地名としてたくさん残っていますが省略させ
ていただきます。
古代の現存物としては、文部省特別史跡「鹿毛馬神籬石*註」(かけのうまこうごういし)が水門・石列共に古代の何物かを物語るかのように、厳然として残っています。
古文書、寄進状等を通じて神社の歴史を考えますに
一、景行天皇は熊襲平定のため、田川方面まで進出されました。その節、日思山に神社を建てられて県主を祭主に定められました。
一、聖武天皇の神亀年間には嚴嶌神社の東方に神宮院を建立し「この地清浄なるが故に名付けて浄楽寺と言う」つまり神仏混淆時代のことで、今から千二百四十年の昔のことになります。
一、仁明天皇の時代には、勅僧の「伝燈大師、一如法師が日思山嚴嶌大明神に杖を留めて二十一日間勧経三昧の折柄、神託ありて云々」とありますが今から千百年昔のことになります。
一、後光厳天皇の時代(後村上天皇、正平十一年)の延文元年、この時代は南北朝時代で日本国中が乱れ民衆の心も乱れていたので、日思山の山上ではお祭りする事も出来ずついに「本宮の三女神を筑前の鹿毛馬郷に移し、相殿の天照大神宮と神宮院浄楽寺を豊前の大神崎村に移す」と古文書に見えています。
現在の神社地は御神託により、六百八年の昔より今日に至るまでお祭りしているのであります。
(平成祭データ)*註:鹿毛馬神籠石の誤植
国指定史跡 鹿毛馬神籠石(かけのうまこうごいし)
所在地 福岡県飯塚市鹿毛馬
指定日 昭和20年2月22日
面積 33,700㎡(現在指定地)
神籠石とは、丘陵の頂上を取り巻くように巨石を並べて列石とし、低い谷間には石垣で水門などを設けたものです。こうした神籠石は、瀬戸内沿岸から北部九州の七県にかけて10数ヶ所発見され、そのうちの大半は福岡県にあります。
神籠石の築造年代や目的については諸説がありますが、現在ではおおよそ7世紀頃(1400~1300年前)に造られた古代の山城というのが一般的です。鹿毛馬神籠石の存在は、江戸時代の貝原益軒の筑前国続風土記にも、「・
・・[前略]・・・馬牧有り所・・・[中略]・・・四方に石垣を築廻はせり・・・[後略]・・・」と紹介され、古くから人々の関心を引いていたことがわかります。また、牧場の跡と推定しているのも興味深いものがあります。
この神籠石の特色としては
1.他の神籠石に比べ標高30~80mの、低い丘陵にある。
2.谷部には暗渠式の水門が2ヵ所ある。
3.列石は、約1800個の切石を2キロ程にわたって丘陵斜面上にならべている。
4.列石の保存状態は、他の神籠石に比べ最も良好である。
5.水門跡の調査で、7世紀代の須恵器甕破片が出土し、築造年代に手がかりを与えた。
などがあげられます。
平成5年12月1日
飯塚市教育委員会
(案内板より)
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