長門二の宮 「式内社」忌宮(いみのみや)神社

鎮座地 752-0967 山口県下関市長府宮ノ内町1-18    
電話  0832-45-1093 
旧社格等  国幣小社 
 長門国二の宮
式内社 長門國豊浦郡 忌宮神社
御祭神 ・仲哀天皇
・神功皇后
・応神天皇
御由緒  忌宮神社は、第十四代仲哀天皇が九州の熊襲(くまそ)ご平定のためご西下、穴門(長門)豊浦宮(とよらのみや)を興して七年間政務をとられた旧趾にある。
天皇はさらに筑紫(福岡県)の香椎に進出せられたが、一年にして崩御(ほうぎょ)せられたので、神功皇后は喪を秘して重臣武内宿祢に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ、現在の長府侍町土肥山に殯欽(ひんれん−仮埋葬)せられた。
そして皇后はご懐妊中ながら男装せられ、熊襲を煽動していた新羅(しらぎ)征討をご決行、ご凱旋(がいせん)ののち、天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭せられた。これが当神社の起源である。そのあと、皇后は皇子(のちの応神天皇)をご安産になった。
 くだって聖武天皇の御代に神功皇后を奉斎して「忌宮」ととなえ、さらに応神天皇をおまつりして「豊明宮」 と称し、豊浦宮・忌宮・豊明宮と三殿別立の古社(延喜式内社)として栄えたが、その後中殿の忌宮に合祀したため次第に「忌宮」の名をもって呼ばれるようになった。
 古来、文武の神として歴朝の尊崇、武将の崇敬厚く、また安産の神として庶民の信仰を受けてきた。
社殿は明治九年惜しくも炎上し、そのあと仮殿として造営されたものを改修し今日に至っている。

 (平成祭データ)
参拝月日  05/28/2004

長府の町の中心に位置する古社。



仲哀天皇が熊襲討伐のため七年間にわたり仮の皇居とされた豊浦宮跡


鬼石
塵輪の首を落とし、地に埋めて石を置いたが、
塵輪の顔が鬼のようであったため、その石を「鬼石」と呼ぶ。

神門
大正15年、石炭財閥の貝島太市氏により奉献された。

神門から拝殿

拝殿

聖武天皇の御代に神功皇后を奉祭して忌宮と称した。

絵馬

本殿
明治十年の造営で、昭和五十六年に改修された

古来、文武の神として歴朝の尊崇武将の崇敬篤く、安産の神として庶民の信仰を受け、長門国二ノ宮として広く親しまれている。


摂社
八坂神社

末社
荒熊稲荷神社

長府商店街側の
鳥居

参道

周囲の道路から一段高い境内があり、広庭とよばれる砂の境内

豊浦宮の碑

集童場
集童場は、長府藩士福田扇馬が文久二年(一八六二)、南之浜の自宅に開いた私塾 

熊野則之先生の碑
山縣有朋公の揮毫

蚕種渡来の碑
シルクロード日本上陸の地
高さ6.3メートル重さ約37トンの堂々たる碑は、自然石では山口県一

武内宿祢の公孫樹